GALLERY of WORLD ARCHITECTURE
ヨルダン・ハーシム王国
ヨルダンの建築
神谷武夫
ペトラ

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「イスラム国」と ヨルダン

 「イスラム国」の人質となった後藤健二と湯川遥菜の両氏は日本政府から見殺しにされ、1月24日と31日に殺害された。捕虜となっ たヨルダン人パイロットは、人質交換交渉以前に殺されていたようだが(1月3日というのが本当かどうか、根拠が示されないので解らないが)この一連の事件報道で、ヨルダンという、それまで多くの日本人はその存在すら知らなかった国に、その視線を釘づけにされた。
本サイトでは、今から2年半前に 日本の女性ジャーナリスト、山本美香さんが シリアのアレッポで戦闘に巻き込まれて死亡した時に、シリアというのは、文化的には どういう国かを 建築史の面から伝えた。(「シリアの建築」) 今回の後藤・湯川事件についての 政治・外交問題については、『世に倦む日々』のブログ記事 後藤健二とNHKと外務省の真実後藤健二とメールの謎をめぐる捏造と隠蔽などを読んでもらうこととして、ここには 建築史の立場から、ヨルダンというのはどんな国かを、シリアの時と同じように 私が撮影してきた写真を主として、簡略に紹介しておこうと思う。

アンマン
首都 アンマンの市街地

 「シリアの建築」に書いたように、中東の、地中海の東部地域は 古来 シリアと呼ばれてきた。そこには 現在のシリア共和国だけでなく、レバノン、パレスチナ、イスラエル、ヨルダン、(ときにはトルコ南部まで)含まれるので、その歴史上のエリアを 現在のシリア共和国と区別して、「大シリア」と呼んだりもする。ヨルダンは 文化的には(建築的には)シリアと連続している地域で、ローマ時代から近代までの建築史的変遷過程は、シリアと ほとんど全く同じである。
地理的に 現在のイスラエル、パレスチナとはヨルダン川と死海によって区切られている。ヨルダンという国名は『聖書』の時代から広く知られるヨルダン川に由来し、国土の、川に沿った西半分が農業も行われる豊かな地で、東半分の内陸部は、大部分が砂漠である。

歴史上のヨルダンの建築

ヨルダンの建築的遺産は、ローマ時代のジェラシュやヘレニズムのペトラをはじめとして、多くが西半分にあるが、初期イスラームのウマイヤ朝時代の「砂漠の城館」と呼ばれる一連の建物が、砂漠地域の諸所に残っていて、「イスラーム建築」の形式が成立する以前の、最初期のイスラーム建築として、「イスラーム建築史」では必ず言及される建物群である(シリアのパルミュラから遠からぬ地にも「カスル・アルハイル・アッシャルキー(東のハイル宮殿)」と「カスル・アルハイル・アルガルビー(西のハイル宮殿)」があるが、私は未訪なので、「シリアの建築」で扱うことができなかった)。

地図
ヨルダンの 建築地図

ヨルダンの建築で最も人を驚かせるのは、ペトラの遺跡だろう。岩山の裂け目のような、スィークと呼ばれる狭い通路を1キロメートル以上歩いていくと、突然ヘレニズムの神殿建築のような巨大な建物が、それも石を積んだのではなく、インドの石窟寺院のように岩壁を彫刻した姿で現れるのには、度胆を抜かれる。さらに歩いて廃都の中央に出れば、周囲の岩山には無数の石窟墓が彫刻されていて、初めてインドのアジャンターやエローラーを訪れた時のように興奮してしまうのである。

中世、近世の建築としては、シリアにおけるダマスクスやアレッポのような「博物館都市」がないので、ピックアップすべきモニュメントも少なく いささか物足りないが、現代建築ではエジプトのハッサン・ファティの後継者と見なされる建築家のラセム・バドランが活躍しているので、シリアよりも欧米から注目されている。

(2015/03/01)


ローマの建築


ジェラシュ(ゲラサ)の遺跡 JERASH (Gerasa)

ジェラシュの谷あいは太古の時代から人が住んでいたようであるが、ローマ帝国のトラヤヌス帝(在 98-117)の時代に(パクス・ロマーナ)寒村から都市へと発展し、多くの公共施設が建設された。シリア南部のデカポリス(十都市同盟)のうちの一つ。古名はゲラサ。8世紀半ばに大地震で大きな被害を受け、以後、都市は衰亡した。長く忘れ去られていたが、1923年から 34年にかけてアメリカ隊によって発掘され、有数のローマ都市としての全貌が明らかになった。



フォルム(広場)と カルド(列柱街路)
Forum and Cardo, 3rd c.

ジェラシュ  ジェラシュ  ジェラシュ

都市の南部に楕円形をした大きな広場(フォルム)があり、イオニア式の柱頭をもつ壮大な列柱で囲まれていた。都市の広場はギリシアではアゴラといったが、ローマではフォルムと呼んだ。都市生活の中心であり、政治の場でもあり宗教的祭儀の場でもあった(公開討論の場を意味する英語のフォーラムは、これに由来する)。初期には自然発生的な不整形のものであったが、共和制末期から整形で荘厳なものになった。ここから都市の中心街路である「列柱街路」が、北へ長く伸びる。ローマ都市は2本の直交する大通りを基準に碁盤目状の都市計画がなされるのを常とし、その2本のメイン・ストリートを カルドとデクマヌスという。



ハドリアヌス帝の凱旋門と南の劇場
Hadrian's Triumphal Arch and Amphitheater, 1-2 c.

ジェラシュ  ジェラシュ

ハドリアヌスの凱旋門は市の南側にあり、まさに都市に凱旋するための門であった。市内の北と南に野外劇場があり、文化的にも成熟していたことを示す。南劇場は A.D 90年頃の建設とされ、約 5,000人の観客を収容した。



アルテミス神殿ニンファエウム
Artemis Temple and Nymphaeum, 2nd c.

ジェラシュ  ジェラシュ

女神アルテミスに献じられたローマ神殿。十字軍によって破壊されて 屋根はないが、12本のコリント式円柱が残る。
ニンファエウムというのは、泉の神・ニンフを祀る神殿のことだが、祭事よりは憩いの場とされたらしい。191年の建立とされ、アプスまわりが華やかに装飾されている。

ナバテア + ヘレニズムの建築


ペトラの遺跡 PETRA (Wadi Musa)

ペトラ遺跡は約2千年前に繁栄したナバテア王国の首都。現在の地名はワディ・ムーサー。106年にトラヤヌス帝のローマ帝国に併合されアラビア州の州都となった。2世紀から3世紀にかけて都市建設および無数の岩窟墓が造営された。363年の大地震以後 組積造の建物はほとんど失われてしまったが、岩窟墓は半壊しながらも多くが残り、インドに次いで、エチオピアと並ぶ石彫建築を伝える。1812年に再発見されてから主にイギリス隊が発掘調査をした。19世紀半ばにデイヴィド・ロバーツが訪れて描いた 『THE HOLY LAND(聖地)』 におけるペトラのリトグラフ(石版画)がヨーロッパ人を魅了した。



ファラオの宝庫(石彫建築)
Al Khazneh, 1st c. B.C.

ペトラ   ペトラ  ペトラ

ファラオの宝庫(アル・ハズネ)はナバテアの王・アレタス4世が紀元前1世紀に造営したという。遺跡全体の入口から、スィークと呼ばれる長さ1.2kmにおよぶ岩山の裂け目を歩いていくと、その終わりに突然この石彫建築が現れる。幅 28mに高さ 43mという大きさと合わせて、その劇的効果は抜群である。葬祭殿であったろうと言われている。

ペトラ  平面図  ペトラ



市街(石造建築) City Center, 1st c.

ペトラ  ペトラ

都市の中央部は岩山に囲まれた小盆地のような平地で、ここには列柱街路があり、かつてはこの周囲に多くの石造建物があった。

ペトラ  ペトラ



摩崖墓群(石彫建築)
Rock Carved Tombs, 1st c.

ペトラ  ペトラ

都市の中央部は岩山に囲まれた小盆地のような平地で、ここには列柱街路があり、かつてはこの周囲に多くの組積造の建物があった。床は大理石。

ペトラ  ペトラ  ペトラ



デイル(僧院)(石彫建築)
Al Deir (The Monastery), 1st c.

ペトラ  ペトラ

ペトラ

ペトラ遺跡の最奥部、山あいに孤立して聳えるのが石彫墓のアッデイル。ペトラで最大規模を誇るが、細部の仕上げは「ファラオの宝庫」に及ばない。ローマとは異なった ナバテア式の柱頭やエンタブラチュアをもつ。

初期キリスト教の建築(ビザンティン)


ジェラシュ JERASH

カテドラル  Cathedral , 4th c.

カテドラル  カテドラル

ローマ帝国がキリスト教を公認したのは 313年であり、350年には国教とした。ジェラシュには 15余りの聖堂があるが、多くは6世紀頃の建設。カテドラルは4世紀後半とされ、初期キリスト教の建築と言えるが、当時一般的だったバシリカ式聖堂。建築的に目を引くのは、カテドラルの入口をなす門である。アーチ開口ではなく まぐさ式としているが、実は3個の石をつないだ水平アーチである。



マダバ MADABA

聖ゲオルギオス聖堂のモザイク画
Mosaics of the Church of St. George , 6th c.

マダバ  マダバ

アンマンの東南 35kmのマダバで、ギリシア正教の聖ゲオルギオス(ジョージ)聖堂を 1896年に改築したところ、 パレスチナの地図を描いた巨大な床のモザイク画が発見された。 残存していたのは全体の 1/4 ほどだが、エルサレムの市街の地図が 特に注目された。

初期イスラームの建築(ウマイヤ朝)


クサイル・ハラーナ QUSAIR HARANA

砂漠の城館  Desert Castle, 710

クサイル・ハラーナ  クサイル・ハラーナ

ヨルダンのワーディ・ブトムの谷あいの砂漠には「砂漠の宮殿」と呼ばれるウマイヤ朝時代の一連の建物が残っていて、その中のクサイル・ハラーナの小城は、古代末期になお東方の国境地方に存在したローマの駐屯都市の古典的構成をとっている。方形プランに円形の櫓をともなったこのウマイヤ朝の建物は、ローマの軍団によってアラビア地方に導入された防御技法に範をとっている。
砂利の詰め物をしたぶ厚い塁壁で囲まれていて、ローマ帝国の軍営都市である「駐屯都市(カストルム)」の流れを汲んでいる。隅部の円形の櫓や城塞化した門が、ローマの形式を彷彿とさせよう。中央部には中庭があって、二層にわたる住居に通じている。ヴォールトの方法および 付け柱状の3本の小円柱の束の上に立ちあがるアーチは、メソポタミアのササン朝の影響であろう。アーチ型スキンチの造型が面白い。
砂漠の宮殿とも、農業経営の基地(スチールラン)ともみなされたが、実際の機能は キャラバンサライであったらしい。今ではアンマンから立派なハイウェイが砂漠の中を、クサイル・ハラーナとクサイル・アムラを通ってサウジ・アラビアに抜けているので、簡単に訪れられる。

クサイル・ハラーナ  クサイル・ハラーナ




クサイル・アムラ QUSAYR AMRA

砂漠の城館(浴場) Desert Palace, 715

クサイル・アムラ  クサイル・アムラ

ヨルダンの砂漠の中にあるクサイル・アムラは、イスラームの現存最古の浴場建築である。ハリーファ(カリフ)・ワリードT世の治世、715年に建設されたこの城館は、そのプランといい、飾り気のない外壁といい、アンジャールの浴場に似かよっている。今は砂漠となっているこの地方も、当時は「肥沃な三日月地帯」であって、その農業経営のための諸施設のひとつであった。内部には謁見ホールと熱浴室、炉室があり、かたわらに井戸がある。内部空間をそのまま表したような半円筒形ヴォールトとドーム屋根が並ぶ外観は、飾り気のない謹厳な姿であるとはいえ、クサイル・ハラーナが矩形のプランを分割しているのに対して、こちらは要素の連結式プランであるので、機能主義的な立体造形となった。
内部の壁、天井はすべてフレスコ画で埋められていて、そこには水浴びする裸婦と当時の貴人たちが隣りあって、狩りの場面や音楽家たちとともに描かれている。イスラームでは、偶像崇拝につながりうる 形象彫刻や絵画は駆逐されてきたが、イスラーム初期のウマイヤ朝の時代には、まだイスラーム建築の性格が 確定していなかったので、 形象による装飾を 先行文明から受け継いでいた。クサイル・アムラの入浴する女性の姿は、周囲の人々が眺めていることからすると、これは踊り子の絵だったのかもしれない。

クサイル・アムラ  クサイル・アムラ




イェリコ JERICHO

ヒルバト・アルマフジャール宮殿と浴場
Khirbat al-Mafjar, c. 744

アルマフジャール  アルマフジャール

イェルサレムやイェリコを含むヨルダン川西岸地区は、かつてはヨルダン領であったが(1950-67)、第三次中東戦争によってイスラエルに占領された。1988年にパレスチナ自治区となり、2011年に独立パレスチナ国として国連に加盟申請した。歴史的経緯をふまえて、イェリコ近郊(約3km)のヒルバト・アルマフジャールの遺跡を ここで扱う。
おそらくウマイヤ朝のハリーファ(カリフ)・ヒシャーム(在 724-743)によって、クサイル・アムラの 20年後、739年から 744年の間に建てられたヒルバト・アルマフジャールの宮殿は、当初のプランから相次ぐ拡大の産物として、数ブロックの集合体となっている。最初の部分は、南側に一辺が70m近くにもなる塁壁で囲まれた矩形をなしていて、円形あるいは半円形の櫓をその側面にともなっている。その基本構想は、ローマがシリアやパレスチナ、アラビア地方に移植した砦に直接範をとっている。
建設の第二段階では、古代風の浴場の 巨大で豪華な施設が加えられた。そこにはローマ風の浴場の特徴的な諸室や、床暖房の設備が見られる。この浴場は方形の大広間が16本の剛柱を持ち、各辺には3連のアプスをともない、中央の採光ドームへと高まっていく複合ヴォールトの屋根でおおわれていた。その床は、幾何学文様の様のみごとなモザイクが、まるで絨毯のように床を覆っていた。

アルマフジャール  アルマフジャル  アルマフジャール




アンマン AMMAN

アンマンの城館  Umayyad Palace, 8th c.

アンマン  アンマン  平面図

アンマンの城塞内に、正方形に内接するギリシア十字のプランの建物が残り、アンマンの城館と呼ばれている。やや尖頭形をしたアーチでヴォールトを架けた2か所の入口通路と、それとは直交する軸上に向かい合う2基のイーワーンをそなえ、これら四つの要素が面する中央広間には、今は失われているが、ドームが載っていたと考えられる。ここにはササン朝の玉座の間におけるのと似た内部イーワーンが使用されている。また建物の内周壁全体にわたって 付け柱や半円柱をともなったニッチによる装飾があり、クテシフォンの宮殿を思い起させる。イスラーム以前のガッサーン朝時代(6世紀)の玉座の間であるという説もあるが、ウマイヤ朝時代(8世紀)の建物らしい。

十字軍時代の建築(エルサレム王国)


ケラック・ド・モアブ  KERAK DE MOAB

十字軍の城塞  Crusader's Castle, 1161

ケラック  ケラック  ケラック

 十字軍の城はシリアに最も多いが、ヨルダンにもいくつかあり、ケラック・ド・モアブの城塞が最もよく往時の姿を伝える(シリアのクラック・デ・シュヴァリエの城塞ほどではないが)。
モアブとは古代イスラエルに隣接した地域の古代名で、旧約聖書のロトの息子のモアブに由来する。ケラック(クラック)の城塞は、十字軍がつくったエルサレム王国の臣下・パヤンが 1142年から 61年にかけて建設した。地形的に難攻不落を誇ったが、アイユーブ朝のサラーフ・アッディーン軍に攻囲されて、1188年に陥落した。以後はイスラーム側の城砦となったので、城内には十字軍の聖堂もあれば マムルーク朝のモスクもある。
アンマンでの、ヨルダン川西岸への入域許可をとるのに えらく時間をとられて、とうとうケラックを訪ねる時間がなくなってしまったので、ここには借用写真を掲げる。

近代のモスク建築


アンマン AMMAN

大フセイン・モスクアブー・ダルウィーシュ・モスク 
Grand Hussein Mosque, Abu Darwish Mosque, 20th c.

アンマン  アンマン

国民の大多数がムスリムの国の首都なので、当然多くのモスクがあるが、建築史的に特別重要なモスクはない。ここでは 特に目立つ2つのモスクを採りあげよう。アンマンの古地区に建つのは 大フセイン・モスクで、アル・フセイニー・モスクともいう。 現在のものはトランス・ヨルダン時代の初代国王、アブドゥッラー1世(1882−1951)が1924年に建てた。マムルーク風の礼拝室の両脇に、オスマン風のミナレットが2本立つ。もともとは、ビザンティン時代に建てられたフィラデルフィアの大聖堂を、正統カリフ時代の 640年にモスクに改築したと伝えられるが、20世紀まで どれだけ原型をとどめていたのか、定かでない。

アブー・ダルウィーシュ・モスクは、アンマンの 七つの丘の中で 最も高いアシュラフィーヤの丘に建つ、アンマンで最も目立つモスクである。1961年に建てられた現代のモスクだが、ストライプ状の 二色の石によって、ガウディを意識したかとも思わせる不思議な造形をしている。 この土地の所有者であった、1903年グルジアのアブハジアに生まれ、シリアで育ち、ヨルダンに定住したアブー・ダルウィーシュ(ムスタファ・ハッサン)という人が自分の土地を提供し、費用も出して建設した。デザインも彼自身が行ったという。シリア建築の愛好者だったというから、シリアに多い2色のストライプを採用したのだろう。ミナレットの高さは36mという。

現代建築


アンマン ANMAN

ALIA オフィスビル・コンプレクス  Al-Iskan Bank Building, 1982

ALIオフィスビル・コンプレクス  ALIAビル

アンマンの北東の新市街、内務省ビルの近くに建つ21階建のビルで、現在は アル・イスカン銀行ビルと呼ばれているが、以前は ALIAオフィスビル・コンプレクスといい、住宅金融公庫やロイヤル・ヨルダン航空の本社、そしてホテルもはいっていたらしい。今でこそアンマンには高さ 200m級の超高層ビルがいくつも建っているが、1980年代から 90年代には この 98mのビルがヨルダンで一番高い建物だった。外観的にもアンマンのシンボルのような役割を果たしていたが、その設計者を調べると、明らかにならない。70年代末に、主としてアメリカの大設計事務所ばかり6者(NBBJ, Gensler, HOK, WZMH, SOM, WATG)を招待して指名コンペを行なったようだが、不明朗な結果に終わったらしい。
真四角なビルに比べて、やや凹曲線を描きながら積層する階段状のバルコニーが、緑で包まれながら雁行するというのは、なかなか魅力的なデザインである。



ラセム・バドラン(建築家) RASEM BADRAN

設計活動・理論  Works, 20th c.

バドラン  バドラン  バドラン

中東出身で世界的に知られている現代建築家といえば、イラク出身の ザハ・ハディッド(1950年 バグダード生まれ)と、ヨルダンの ラセム・バドラン(1945年 エルサレム生まれ)である。ハディッドがヨーロッパの前衛建築家として活動しているのに対して、バドランは西ドイツのダルムシュタット工科大学で建築の教育を受けたことと、父親がヨルダンの伝統的工芸家であることを反映して、現代建築の技術と方法を用いながら、中東におけるイスラームの建築的伝統を積極的に取り入れようとしている。その成果によって、彼はエジプトの近代建築家、ハッサン・ファティ (1900-89) の後継者と見なされ、イギリスの老舗出版社 テムス&ハドソンから作品集が出版された (2005)。その立ち位置はインドのバルクリシュナ・ドーシ (1927- ) に似ていると言えようか。
1995年にリヤドの大モスクと旧市街の再開発計画で、アーガー・カーン賞を受賞している


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