GALLERY of WORLD ARCHITECTURE
チャンディーガル(インド)
チャンディーガル建築案内
<「旅行人」版 >
神谷武夫

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新州都・チャンディーガルの建設

 インドがイギリスから独立したのは 1947年だが、パキスタンと分離独立したために、パンジャーブ地方はインド側のパンジャーブ州と パキスタン側のパンジャーブ州に二分されてしまった。中心都市のラホールは パキスタン側に編入されてしまったために、当時のネルー首相は 新しい州都を建設することにし、翌年土地を選定した。そこにはいくつかの村があり、ヒンドゥ教のチャンディー寺院があったことから、新しい都市は チャンディーガルと名づけられた。
 英領時代のインドには イギリス人によるコロニアル建築が建てられてきたせいか、過去を清算すべき新州都の都市計画は、アメリカの建築家アルバート・メイヤーに委ねられ、主要な施設のデザインは マッシユ・ノヴィッキが協働することになる。ところがノヴィッキが 1949年に飛行機事故で突然世を去ると、メイヤーは意気阻喪してしまい、計画は中断してしまう。 そこで政府の委員会は翌年、新しい建築家さがしにヨーロッパに旅立った。

 そうやって選ばれたのが、当時のモダニズムの旗手、フランスのル・コルビュジエである。しかし彼はすでに 63歳。インド政府が求めた3年間のインド駐在には応じず、そのために3人の協働者が選ばれた。1人はル・コルビュジエの従弟のピエール・ジャンヌレ、あとの2人は知人の建築家夫妻 マックスウェル・フライとジェイン・ビヴァリー・ドルーである。
 ピエール・ジャンヌレはル・コルビュジエより9歳年下だが、かつて 20年近く 設計のパートナーを務めたので、ル・コルビュジエの年代順作品集全8巻のうち、最初の3巻は2人の連名の作品集 になっている(ル・コルビユジエの本名は シャルル・エドワール・ジャンヌレという)。

   
マーケット地区と、標準的なオフィスビルディグ

 ル・コルビュジエは メイヤーの原案を大幅に修正して、自身の都市計画思想を盛り込むとともに、首都機能をになう キャピトル・コンプレックスの建物群を設計した。3人の協働者は 1951年から現場に事務所を構え、その監理をするとともに、フライは 54年まで、ドルーは 56年まで、そしてジャンヌレは 65年までチャンディーガルに住んで、他の施設の設計・監理を行った。
 都市の人口は当初 15万人、最終的に 50万人という想定で計画されたが、後に南側に拡張されて、現在は 75万人ほどが住んでいる。これらの住区計画と 共同住宅や学校の設計が、現地に駐在した建築家の最も重要な課題だった。ル・コルビュジエは 1965年に没し、他の3人もすでに世を去り、建設開始以来 50年を経過した新都市は、今や 20世紀の代表的な都市設計として、歴史的な保存の対象となりつつある。


キャピトル・コンプレクス

 まずは一番北の第1セクターにある ”キャピトル・コンプレクス” に行く。ここに ル・コルビュジエが設計して世界に名をとどろかせたモニュメント群がある。“セクレタリアート”(行政庁舎)、“ヴィダン・サバー”(議会棟)、“ハイ・コート”(高等裁判所)、それ に小さな “日陰の塔” や “開いた手のモニュメント” などだ。かつてはどれも自由に立ち入りができたのだが、アムリトサルやカシュミールの紛争などが起きてから、主要3施設の構内は それぞれフェンスで囲われ、出入りがチェックされるようになった。情勢の厳しい時には立ち入り禁止の事態もありえる。
 セクレタリアート(行政庁舎)では構内入り口の検問所で 入構許可書をもらえるが(要パスポート)、構内は撮影禁止であることを告げられる(全体の外観は議会棟から撮れる)。ここの屋上庭園に出ると、かつてのにぎわいが嘘のようにひっそりとしているが、ここからの眺めは絶景で、キャピトル・コンプレックスの構成がよくわかる。

   
ヴィダン・サバー(議会棟)の遠望 と 大扉

 ヴィダン・サバー(議会棟) では、トゥーリスト・オフィスで教えてもらった アジユメール・シング氏を訪ねると、部下の人が議場内に案内してくれた (もちろん会期中は不可)。パラボロイド(回転放物面)の独特な形態の議場や幻想的なロビーなど、内部は撮影禁止だが、外部は自由に写真が撮れる。

 私の学生時代には チャンディーガルはフランス語読みのシャンディガールと呼ばれ、近代建築のバイブルのように言われたものだ。それまでの様式主義の建築と 美観主義の都市計画に対して CIAM(近代建築国際会議)が主張した、国際様式の建築と 機能主義の都市計画の理論と方法は ヨーロッパには実践の場がなく、新都市として大規模に実現したのは インドのチャンディーガルとブラジルの新首都ブラジリアのみであった。したがって当時の建築家たちがそこに見たのは、様式主義との「闘い」を勝ち抜いた モダニズムの都市と建築の建設現場なのであって、インドの風土や建築伝統との関わり方の当否 ということではなかったのである。いわば、それはモダニズムの「勝利の都」なのであった。

 けれども その建設がほぼ完成した 1965年頃には、モダニズムに対する批判が 若い世代から起こりつつあり、その画一性や退屈さ、伝統との隔絶などが 批判の組上に乗せられた。そうした動きに「ポスト・モダニズム」という名が与えられるのは だいぶ先のことであるが、たしかにチャンディーガルは、かつてのポルトガルによる植民都市 ゴアと同様、伝統と切り離された 非インド的都市であると言えるだろう。しかしこの都市を計画した側も受容した側も「インド的な都市」の実現を求めたわけではないし、また日本ではインドの建築や都市の伝統への知識などなかったから、チャンディーガルに対する毀誉褒貶(きよほうへん)は、 あくまでも「モダニズム」に対するそれなのであった。

ハイ・コート (高等法院)

 今にしてみれば、これは 20世紀の「モダン様式」を象徴する都市なのであって、かつて建築家たちが共同で 何かと 「闘っていた」 時代を 郷愁の念で思い起こさせる場所でもある。昔 ル・コルビユジエの作品集で何度も繰り返し写真を見た キャピトル・コンプレックスの建物群は、今ではかなり傷んでいるものの、コンクリートによるブリーズ・ソレイユ(日除け)の大胆な造形は 今も健在である。

 しかし、この幾何学的な直角の世界に少々疲れたなら、リキシャで少し南東へ向かうと、道路視察官の ネック・チャンドが長年にわたって造り、1976年にオープンした “ロック・ガーデン”(彫刻庭園)がある。そこにはシュヴァルの “理想宮殿” にも似た、廃材による彫刻や建築(?)の特異な世界が広がり、モダニズムに対する強烈なアンチ・テーゼとなっている。
 さらに少し南東へ足をのばすと、スクナ湖に面して ル・コルビュジエの小規模なレイク・クラブの建物があり、ここでお茶でも飲んで しばし休憩。

   
ロック・ガーデンと、ネック・チャンドの碑


市内の建築

 次に、第 10セクターの文化施設群を訪れることにしよう。ここには ル・コルビュジエによる美術学校、市立美術館と展示パビリオン、そして “生活進化の博物館” が道路に沿って一列に並んでいる。美術館は東京の国立西洋美術館、アフマダーバードのサンスカル・ケンドラ美術館と三部作をなす「成長する美術館」のコンセプトで設計されていて、内部空間の雰囲気もよく似ている。
 チャンディーガルは近代芸術の都市であるという考えから、フランスのエコール・デ・ボザールにならって、大学とは別個に 美術学校と建築学校が早くに建設された。両者はル・コルビュジエによってほとんど同じデザインがなされているが、建築学校はここから離れて大学キャンパス内にある。

   
市立美術館と、建築学校のエントランス部

 この文化ゾーンの はす向かいの第 17セクターが “シティ・センター” で、都心のマーケット(ショッピング・センター)が広がり、その南側が 先ほどのバス・ターミナルだ。マーケットの建物は 全て同じ打ち放しコンクリートの円柱とバルコニーが続いていて、いささか退屈である。ここにはもう少し華やかな建物が必要だったろう。
 たとえば、南隣りの第 22セクターの中央部には マックスウェル・フライが設計した映画館 “シネマ・キラン” があり、シンプルでありながら魅力的な近代建築として、地区のシンボルとなっている。

マックスウェル・フライの シネマ・キラン

 都市の西端が パンジャーブ大学のキャンパスで、インドでは デリー大学などと並ぶ重要な大学になっている。建築学校は その第 12セクターにあり、第 14セクターにはピエール・ジャンヌレの ”ガンディー・バワン”(マハトマ・ガンディー記念館)や B・P・マトゥールの “学生会館”、そして第 11セクターのマックスウェル・フライによる “カレッジ・フォー・メン” その他多くのカレッジが建ち並んでいる。
 一番目を引くのは ガンディー・バワンで、規模は小さいものの、自由な造形が池に姿を映して 静謐(せいひつ)なたたずまいを演出している。この隣りには大学美術館があり、その横が ピエール・ジャンヌレによる美術学部の建物である。

   
パンジャーブ大学の学生会館と、ガンディー・バワン

 ピエール・ジャンヌレとマックスウェル・フライ、ジェイン・ドルーの3人が設計した 90あまりの建物群は、建築学校助教授の キラン・ジョシ女史によって、最近大きな本にまとめられた。ル・コルビュジエの作品だけでなく、チャンディーガルの都市設計と近代建築を深く知ろうとする人には 必須の本である。
 ル・コルビュジエの作品については、彼の年代順作品集の第4巻から第8巻までに詳しく掲載されていて、その発展のあとを たどることができる。さらに、新都市の計画と展開の歴史については、"CHANDIGARH, The Making of an Indian City" Ravi Kalia, 1987 に詳しく書かれている。

   
3人の建築家の仕事を集大成した本と、郊外に広がるスクワッター

 最後に、インドの都市の現実を知るには、デリーからの幹線道路が 市内に入る手前の両側に広がる スクワッターにも目を向けて欲しい。これらは、計画都市内には住めない低所得層の人々が不法占拠して 廃材で建てた住居群である。リキシャ・ワラーも、家族とともに ここに住んでいることだろう。 市内の緑園都市にゆったりと配された住居群に住むのは、官僚や富裕層の市民だ。 こうした住環境の激しいギャップは、単にチャンディーガルの行政の問題ではなく、インド全体が かかえる問題で、それが ここに最も鮮明な形で現れている。

 市内の住民は、世界の最先端を行く都市に住んでいるという、かつての自慢げな意識ほどではないにせよ、今でもこの町を誇りにしているが、市外のスクワッターに住む低所得の人たちは、それとは別の疎外感をもっていることだろう。ヨーロッパにおける都市計画の方法を そのままインドに適用したル・コルビュジエが、「アーキテクチュア・フォー・ザ・プアー(貧者のための建築)」を標榜した エジプトの建築家、ハッサン・ファティのような存在でなかったことだけは確かである。

( 季刊 「旅行人」 2004年 夏号 )


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