GALLERY of WORLD ARCHITECTURE
ジャイサルメル(西インド)
パトウォンのハヴェリー
神谷武夫
ジャイサルメル
ジャイサルメル、パトウォンのハヴェリー

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砂漠の都市

 「砂漠」と「都市」というと、一見正反対の概念のように思えもするが、実は砂漠のなかにも都市はある。鉄道が発達する以前、交易の輸送機関は馬であったが、砂漠地帯においては、水の欠乏によく耐えるラクダが重用された。その中継地にはキャラバンサライ(隊商宿)が建てられたが、大きなオアシスには都市が形成され、ラクダの隊商はここで一息入れるとともに、次の行程のための水や食料や備品を調達するのである。
 彼らの納める通行税と消費によって繁栄した都市として、シリア砂漠のパルミュラが歴史的に名高いが、西インドのタール砂漠では ジャイサルメルの町が、インドとペルシアやヨーロッパを結ぶ隊商路(キャラバン・ルート)における最も重要な都市となった。黄色い砂と土の地面が延々と続く 数十キロの砂漠を歩き続けたあと、砂漠のなかのトリクータの丘に半円形の櫓が建ち並ぶ 印象的な城砦とその城下町を目にしたときの、隊商の人々の安堵感はいかばかりだったろうか。砂漠という海に浮かぶ陸の孤島だが、そこは旅人にとってばかりでなく、ラージプート諸侯が抗争を続けた時代に、砂漠という地の利を活かした、西インドの人々と財産にとっての 安全な避難地帯でもあった。


 タール砂漠最大のオアシスとしての ガディサル湖を従え、シティウォール(市壁)に囲まれ、城砦の周囲に広がる市街の姿は、まことに印象的である。というのも 城砦はもちろんのこと、城下の建物は すべてが地面の土や砂と同じ色の黄色い砂岩で建てられていて、しかも そのファサードは宮殿といわず寺院といわず、庶民の民家にいたるまで すべてが、繊細な彫刻をほどこされた 石造の格子窓やバルコニーで華やかに飾られているからである。 砂漠の太陽の強い日差しを受けて、黄土色一色に染めあげられた町は、彫りの深い石細工のアラベスクとして燦然と輝く。硬化した良質の黄砂岩の陽光に輝く町を見て、人はこれを「黄金の都市」と形容した。

 しかしこの繁栄した都市も 近代になって、交易路が海洋貿易に取って代わられると重要性が低下する。さらにインド亜大陸が英国から独立する時に インドとパキスタンに分割され、ジャイサルメルのすぐ西に国境線が引かれるにおよんで、この都市は かつての役割を失い、町はさびれ、外界から忘れ去られてしまった。私が初めて訪れた 30年前は復興期であったが、町には車が1台もなく、商店もホテルもなく、ただ中世の町並みが タイムカプセルに乗って忽然と現代に現れたかのような町だった。
 しかし、その後インドで最も美しい町として世界に知られるようになる。かつて栄えた商業都市が、今では歴史遺産と町並みの魅力によって観光都市となっている姿は、まさに「陸のヴェネツィア」といった趣である。

パトウォンのハヴェリーのバックサイド

 この町がインドで珍しいのは、都市全体が市壁で囲まれて 平面的拡張を抑えられたがゆえに、高密度に集住して高層化したことにある。その原因もまた、自然に頼ることのできない砂漠都市が必要とした 防御性にあったことは言うまでもない。町を歩きまわると、中東の都市と同じような迷路感覚に襲われるが、小規模な都市であるから、じきに全容が把握できる。城砦にのぼれば、町全体の構造から砂漠の地平線まで見渡すことができる。
 インドは古代に木材が豊富であったため、木造建築を主流としたから、組積造としてのアーチやドームを知らず、中世の石造文化の時代になっても 石を木のように使って、柱・梁式の建築をつくり続けた。ジャイサルメルの建築も ほとんどがそうであって、石造の軸組み架構による 4階、5階の建物が建ち並ぶ姿は、われわれ日本人にとっては驚異的である。
 石材は 近郊のロデルヴァやムールサーガルに産する黄砂岩で、おそらくインド各地の黄砂岩のなかでも 最も目が詰んだ良質のものである。その砂岩によって家々のファサードを華麗に彩るのは、繊細きわまりない格子スクリーン(ジャーリー)と、その格子の入った飾り窓(ジャロカー)およびバルコニーである。こうした建築要素は、砂漠の強い日射や砂ぼこりを遮る機能をもっていたが、それ以上に 装飾という大きな役割をも果たしている。これが庶民の家にまでもたらされたのは、彫刻された石の板が ある程度プレファブ化されていて、経済の向上とともに買い足しては ファサードを美化していくことができたからであろう。

半階上がりの露台を備えた道

 家々は道路に面して、日本の縁側のような 半階上がりの露台を備え、そこを仕事場 および近隣との社交の場にもした。その下部は半地下の倉庫やゴミ置き場、ときには居室にも用いられた。 そのように、この町には集住の知恵がたくさん詰まっていて、インドの現代建築家 ラージ・レワルは この町の実測を通じて、デリーその他の都市における新しいハウジング設計に生かしている。インドの「黄金の都市」、建築家なら一度は訪ねてみたい町にちがいない。

(2006年 3月 "KAJIMA" )



ハヴェリー(邸宅)

 インドの名建築といえば、その多くは寺院やモスクなどの 宗教建築である。しかし当然のことながら 建築種別として最も多いのは いつの時代でも住居であって、広大な国土のインドには 多様な気候風土に対応した 多様な住居建築が 各地に建てられてきた。
 その中でも魅力的なのは、西インドの「ハヴェリー」と呼ばれる「邸宅」である。英語のマンションが 日本では民間の集合住宅をさすようになってしまったが、本来は裕福な商人の大邸宅のことをいい、むしろパレスの感覚に近い。その本来のマンションに相当するのが、西インドから北インドにかけて分布する ハヴェリーである。
 ハヴェリーには木造やレンガ造もあるものの、何といっても 石造のものが一番豪華であり、その最も華やかなものは タール砂漠の中央に位置する ジャイサルメルにある。かつてはラクダの隊商が東西貿易を担って タール砂漠を横断したので、その中継都市として ジャイサルメルの都は 17、18世紀に大いに栄えた。

ナトマルのハヴェリーの内部

 ところが海洋貿易が盛んになるにつれて 砂漠都市は凋落していき、さらにインドとパキスタンとの間に 国境ができると 東西交通さえも断ち切られて、この町は忘れ去られてしまった。
 私が初めてこの町を訪れたのは 今から 28年前のことで、ジョードプルから一日に一本の夜行列車で 砂漠を突っきって、早朝に着いたものだった。今でこそ賑やかな観光地となっているが、当時は一台の リキシャもタクシーもない、さびれた陸の孤島だった。そこは どこへも歩いて行ける人間的スケールの町であり、郊外へ行くには 一日に数本のバスが来るのを待つか、ラクダに乗って行くのである。

パトウォンのハヴェリーの 1戸分の平面図
(From "Architecture of the Indian Desert"
by Kulbhushan & Minakushi Jain, 2000)

 しかし ここには、栄えたころの華麗な宮殿や寺院、そして同じように彫刻で飾られた 石造の町家が ぎっしりと建ち並んでいた。まるで中世の砂漠都市が タイムカプセルに乗って忽然と現代に現れたかのような たたずまいに、私は目を みはったのである。 それは まさに「陸のヴェネツィア」であった。
 しかもそのすべての建物が 明るい黄砂岩で建てられていて、強い陽光に照らされたファサードが織りなす 光と影のたわむれは、この町に「黄金の都市」というニックネームを与えたほどだった。


パトウォンの ハヴェリー

 とりわけ有名なハヴェリーは 城下町に3棟ある。最も大きいのは パトウォンのハヴェリーと呼ばれ、ジャイナ教徒の富裕な商人 パトゥアーが 1805年に息子たち5人の家族のために建てた5連の邸宅である。ここに紹介するのはその内の1戸で、隣どうしとは連続しているが、厚い壁で仕切られているので 独立性は高い。

繊細に彫刻された石造の出窓 (ジャロカー)

 そして道路に面して絢爛に彫刻された 石造のファサードは、宮殿の豪華さをもしのぐ。すべてが ジャロカーと呼ばれる石の出窓になっていて、繊細な格子細工(ジャーリー)で飾られている。中東ではこうした窓スクリーンは ムシャラビーヤと呼ばれ、木で作られるが、ジャイサルメルでは 石が木のように自在に扱われているのが 驚異的である。
 このファサードの 繊細無比な彫刻を見ていくと、しかし ここには神々や人間、そして動物の姿がまったく描かれていないことに気がつく。この町はヒンドゥとジャイナの町であって、建築も基本的には インドの伝統的なスタイルに作られているが、インドの一番西に位置しているので、イスラムの影響はまぬがれがたい。偶像を忌避するイスラム建築の影響を受けて、ここには生き物の姿が まったく彫刻されていないのである。

   
パトウォンのハヴェリー、中庭の見上げと 内部の柱

 町は 全体が市壁で囲まれたので、都市内の建築は密集し、高層化していった。パトナウォンのハヴェリーも4階建と5階建のつらなりであり、どの住居も奥行きが長いので、採光と通風のために 中庭を設けている。この住戸には3つの中庭があって、中央の中庭は1階から屋上まで吹き抜けている。
 こうした作りは 京都の町家とよく似ているが、砂漠の中なので 緑のない乾いた中庭であるのが 独特である。 道路に面しては どの家も縁台(オター)をもっていて、ここで作業をしたり 近所の人と交流をしたりするのも、日本の伝統住居に似ていて、まことに興味深いのである。

( 2003年 12月 "EURASIA NEWS" )



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