ENJOIMENT in ANTIQUE BOOKS - LX
范 曽(はんそう)画集

『 魯迅小説 挿図集 』
Lu Xun + Fan Zeng :
" Illustrations for Lu Xun's Tales "
2002, Xianzhuang Publisher, Beijing


神谷武夫

  范曽画集

『 魯迅小説挿図集 』 豪華 帙入中国書、2002年、綫装書局、北京
変則 粘葉装、32 x 22 cm、88pp、責任編集:広陵書社、揚州
( 初版は1978年、簡素なペーパーバック、北京新華書店 )



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上海の 魯迅故居と 魯迅記念館

 2006年に2回目の「中国イスラーム建築調査」に行ったとき、上海には 郊外の 松江(ソンジアン)清真寺(モスク)を見に行きました。私は特に中国文学に親しんでいたわけでは ありませんが、せっかく 上海にきたのだから、魯迅(ルーシュン 1881-1936)の「故居」と「魯迅記念館」に寄ってみようと思い、まず 魯迅故居 を訪ねました。それは集合住宅のようで、道路(施高塔(スコット)路)に面して門があり、それを入ると真っすぐに路地が通っていて、その両側に3階建てのレンガ造の建物が立っています。路地の突き当りには 黒いプレートが掲げられていて、「魯迅故居」と書いてあります。

魯迅故居
上海の「魯迅故居」の説明看板(路地の突き当り)
 

プレートには 説明の 日本語訳と 英訳も書いてあり、日本語訳は 次の通りです(原文のまま)

 「山陰路 132弄9号は(元・施高塔路 大陸新村)、中国の偉大な作家 魯迅の 上海に最後の住居である。魯迅は 1933年4月1日に ここに転居し、1936年10月19日に逝去まで、3年半間 居住したのである。 1959年5月に、上海市人民政府委員会による、上海市クラスの文化財と 公市クラスの文化財と 公表されたのである。」

 どれが魯迅の故居なのかと思って 路地の両側を見回すと、路地の右側の棟の奥辺に、路地に面して また門があり、そこに大きく「魯迅故居」という看板が架かっています。ここだ と思ったら、閉まっている鉄製の格子扉に、「現在 改装中で閉館しています」 と書いた 張り紙がしてありました。 残念。 それだから 中には入れず、保存された室内も 展示も 見ることが できませんでした。
 運が悪かったな と思っていると、路地にいた男の人が、そういう、せっかく来ながら 失望した日本人を 見なれているらしく、「来訪記念の写真を撮ってあげましょう」と言って 私を門の前に立たせ、私のカメラで1枚撮ってくれました。

魯迅故居   魯迅故居
上海の「魯迅故居」と、その門前での筆者

 3階建ての大きな建物の 一番奥の 角部分の1~3階が 魯迅一家の住まいだったそうです。まあ一応、ここまで 来たことは 来たわけですから1枚の記念写真だけで 満足するほか ありません。ガイドブックの地図を見ると、ここの すぐ北の方に 大きな「魯迅公園」があり、その中に 魯迅の墓と 魯迅記念館があることが 分かりましたので、ぶらぶら歩いて 魯迅公園に行きました。ところが 不運は重なるもので、魯迅の墓もまた 修復中で不在、墓の上の 毛沢東の揮毫になる「魯迅墓」という字も 見られませんでした。
 そこで思い出したのは、その 30年も昔のこと、ロンドンに行った時に ハイゲイト墓地に マルクスの墓 を訪ねたら、その1ヵ月ばかり前に 極右か 極左の何者かによって 墓の上に立つマルクスの胸像が破壊されて、黒いビニールシートが かぶされていたことでした。ただ その台座だけは 見ることができ、マルクスの 次の言葉が 英語で刻まれていました。

「哲学者たちは 単に世界をさまざまに解釈してきた だけだが、
 しかし 重要なのは、それを変革することだ。」

 パリのペール・ラシェーズ墓地に ゲルツェンの墓を訪ねた時にも、彼の墓は 南仏のニースに改葬されていて 見られなかった ということは、前に「ゲルツェンとロシアの風景」の エピローグに書きました。私の「墓参り行脚」は トゥロツキーの場合を除いて、うまくいかないことが 多いようです。 ふと思い出しましたが、トゥロツキーというのは ペンネームであって、たいていの人は その本名(レフ・ダヴィードヴィチ・ブロンシュテイン)を知りませんが、魯迅の場合もそうで、魯迅というのはペンネームであって、本名は 周 樹人(しゅう じゅじん)と言い、その弟が 周 作人(しゅう さくじん) です。そう言えば、中国文学史上における魯迅は、日本文学史上における 夏目漱石に相当しますが、漱石もまた そうで、本名の「金之助」という名は あまり流布していません。岡倉天心の本名が「覚三」である ということを 知らない人が多いように。

魯迅

范曽の『 魯迅小説挿図集 』 p.1「魯迅(ルー・シュン)先生造像」
この左ページに、屈原の長詩「離騒」から 次の一節が記してある。
「路曼曼其脩遠兮,吾將上下而求索。」
(道は漫漫と それ修遠なり、われ まさに上下して探し求める。)

 幸い、魯迅記念館は開館していました。この辺りは 戦前に多くの日本人が住んでいたので、「日本人街」と呼ばれていたそうです。そのために 日本と関係が深く、またこの近くに住んでいた 魯迅を記念する公園にしたのでしょう。その中にある 魯迅記念館は 1951年の開館ですが、現在の建物は 1998年の建設なので まだ新しく、設備も整っていました。

記念館   記念館
上海の魯迅公園にある 魯迅記念館、入口と内部

 記念館には 魯迅の自筆原稿などのほかに、著書や関係書が たくさん展示されていましたが、「愛書家」としての私の目を 特に引いたのは『 魯迅小説挿図集 』という、厚手の布装の 帙(ちつ)に入った 和本のような姿の本で、魯迅の小説の一節を取り出しては、それに中国式の墨絵(白描)を 各1ページ大で描いた、A4判よりも少し大きい画集です。古書ではなく 現代の本らしいので、旅行中に手に入れる機会があるかな、と思いながら見ました。画家の名前は 范曽(はんそう)と言い、中国語の発音は「ファンツォン」でしょうか。
 展示室が終わると、最後は ミュジアム・ショップとなりますが、その入口の上に 日本語で「内山書店」と書いた看板があるのには 驚きました。そのファサードの写真を撮ったと思うのですが 見つからないので、「上海ナビ」というサイトから借りて、ここに掲載しておきます。

内山書店

魯迅記念館の中にある 内山書店( 「上海ナビ」 より )
かつての 上海 内山書店のファサードを 模している。

 内山書店と言えば、今でも 神田 神保町に本店がありますが、創立は 今から 100年以上も前の 1916年(大正6)の上海で、内山完造 (1885-1959) が 1913年に 28歳で勤務先からの派遣で中国に渡り、京都で結婚したばかりの新妻、美喜(みき)が 上海の自宅の玄関先で開いた、小さな本屋が始まりです。この「上海内山書店」が 次第に大きくなり、店は 単に(日本語の)本を売るだけでなく、上海での 日中文化人の 交流サロンとなっていきました。店の会の雑誌も作り、郭沫若(かく まつじゃく)や 郁達夫(いく たっぷ)に交じって 内山完造も 漫筆を執筆したそうです。1927年 (昭和2)に 広東から上海に移った 46歳の 魯迅は この近所に住んだので、足繫く書店を訪れ、4歳若い 内山完造と 深い親交を結ぶようになります。魯迅が常連客になったことで 内山書店は有名になり、本の売れ行きも伸び、上海 有数の書店になりました。

本庄豊
本庄豊『魯迅の愛した内山書店』2014, かもがわ出版

 日本からは 谷崎潤一郎、金子光晴、鈴木大拙、横光利一、林芙美子、武者小路実篤、佐藤春夫、岩波茂雄、尾崎秀実などの文人、文化人が訪れ、魯迅は 内山に紹介されて 彼らの多くと知己になります。1931年に 第1次上海事変その他で 危険の迫った魯迅を自宅に匿(かくま)ったり、常に内山夫妻は 魯迅夫妻を庇護し、魯迅の著編書の代理発売元となったりも したので、1936年(昭和11)に 魯迅が逝去すると、内山完造は アグネス・スメドラーらと共に、その葬儀委員の一人ともなりました。

 1945年に日本の敗戦により、上海内山書店は 蒋介石の国民党政府によって接収され、閉鎖になりました。内山完造は しばらくは中国に残りましたが、日本に強制送還され、死ぬまで 日中交流に尽くしました。1959年(昭和34)に 死去しましたが、内山書店の後継者・子孫たちは 日中 国交回復後、中国各地に 内山書店の支店を設け、上海の 魯迅記念館内にも開いたというわけです。


范曽の『 魯迅小説挿図集 』

 その 内山書店内に、展示室で見た 范曽の『 魯迅小説挿図集 』が 平台にあったので、これは有難いと、すぐに買い求めました。定価は 260元で、その時の日本円換算で 3,900円です。当時の中国としては高額書籍だったでしょう。現在の換算率だと 5,500円ぐらいになりますが、稀覯本ではないので、古書店を探せば、半額くらいで入手できるかも しれません。
 この『魯迅小説挿図集』の「初版」が発行されたのは、これより 24年も前の 1978年のことで、ひとまわり小さい B5判の大きさでした。范曽の絵も、魯迅の小説からの引用文も 2002年版と全く同じですが、もっと簡素なペーパーバック版で、もちろん 帙などで包まれてはいません。その頃 范曽も まだ大家ではなく、40歳でした。

范曽   范曽
『魯迅小説挿図集』「初版」 (1978年) の 内容と 奥付

 この粗末な画集は 評価が高かったので、四半世紀後の 2002年に、版型を大きくして 厚手の布装の「帙」に入れた「豪華版」が作られました。絵が大きくなり、 紙も良くなったので、ずっと見やすくなっています。また「袋綴じ」の和本に似た製本なので、片面印刷の紙が2枚づつ重なり、普通の両面印刷だった「初版」と違って、ページの裏が 透けません。

 この製本法は、中国に古くからある「粘葉装」(でっちょうそう)の 変則形です。「粘葉装」というのは「胡蝶装」(こちょうそう)とも言い、二つ折りにした紙の折り目(谷部)を、「袋綴じ」とは逆に 本のノド側にして、ノドの裏を 糊(のり)で貼り合わせます。そうすると ページを完全に開く事ができ、きれいな見開きになります(2ページ見開きの絵の場合には 非常に有効だと思いますが、この画集には 見開きの絵は ありません)。しかし その次の(裏側の)ページは 完全には開けず、ノドの部分が隠れるのですが、この本の場合は 片面印刷なので、裏は白ページとなるので 支障ありません。
 そこで この見開き白ページが見えなくなるように、小口側も 貼り合わせて 袋状にするのですが、不思議なことに 小口側の紙の先端は 上から下までではなく、中央半分ぐらいをのみ 貼り合わせています。おそらく 紙魚(しみ)が糊を食べる部分を少なくするためかと思われますが、それだったら この本の場合、始めから「袋綴じ」にした方が良かったのではないか と思えます。その方がページをめくりやすいし、前回の『天心全集』のような「糸綴じ」にすれば、糊 が不要ですから。 あるいは 何らかの理由(美的理由 ? )で、糸綴じを嫌ったのでしょうか。

 そういうわけで、一見 和本に見えるこの本は 和本ではなく、「唐本」ならぬ、現代の「古風な中国書」ということになります。こういう豪華版が出版されたのはい良いことですが、ひとつ 気になるのは、同じ内容なのに、編集者名が「初版」の奥付では 栄宝斎だったのが、豪華版の奥付では 任夢強と王成彬、劉永明という 別の3人になっていることです。どういう経緯があったのでしょうか。

范曽   范曽

魯迅と范曽 著 『魯迅小説挿図集』豪華版の 表紙と内容、奥付
絹布装 帙入り中国書、2002年、綫装書局、北京

 魯迅は 長編小説を書きませんでした。ほとんどは短編で、唯一の中編小説が『阿Q正伝』です。彼の目的としたところは「遅れた」中国民衆の教化、意識の革新でしたから、「卑屈で愚昧な」民の自己卑下のような 諧謔的なものが多く、恋愛小説などは ありません。「阿Q」という奇妙な主人公名も、阿呆につながり、植民地下の中国庶民の 奴隷的性格を 象徴させたのでしょう。魯迅の愛国主義の 裏返しでしょうか。魯迅に近い文学者は、日本では 芥川龍之介、フランスでは アナトール・フランスと言えるでしょう。

 以下に、『魯迅小説挿図集』の中から5点の絵を選んで、スキャンしてみました。范曽の毛筆による、中国式 水墨の「白描」を 味わってください。もっとも この大きさでは、筆のタッチまでは 出ませんが。ただ、本の絵を見ていると、筆の「かすれ」が 全く無いので、范曽の原画を 木版画にしたもの のようにも見えます。もしかすると 毛筆ではないのかもしれませんが、どうも 正確なところが 分かりません。いろいろと 不思議な本です。

范曽
范曽『魯迅小説挿図集』 p.9 「孔乙己(コンイー チー)



范曽
范曽『魯迅小説挿図集』 p.33 「故郷」



范曽
范曽『魯迅小説挿図集』 p.39「阿Q正伝」



范曽
范曽『魯迅小説挿図集』 p.49 「兎と猫」



范曽
范曽『魯迅小説挿図集』 p.79 「離婚」


『 范曽画集 』

 画家の 范曽 (はんそう 1938- ) は 江蘇省の南通市出身の書画家で、詩人でもあります。字(あざな)は 十翼といい、南開大学の歴史科で学んだことから、歴史画、特に中国の歴史上の人物を 好んで描きました。 日本でも人気があり、『范曽画集』が 1985年に出版されていて、中国の 外文出版社(北京)と 湖南美術出版社(長沙)から出されていますが、その完全な日本語版も製作されました。これは オールカラーで、後半期の作品 54点が収録されています。 日本語版であっても 日本で出版されたわけではないので、輸入図書になります。定価は 書いてありません。
 黒一色の「白描」だけの『魯迅小説挿図集』とは違った、カラーの「墨彩画」による 内容の一部を、下に紹介します。歴史画を得意とする范曽の、堂々たる画風を お楽しみください。

范曽画集
『范曽画集』1985、外文出版社と 湖南美術出版社

 范曽は 何度か来日して、日本で個展も開いています(西武百貨店や 高島屋 その他)。欧米でも高い評価を受けていますが、岡山県の あるコレクターは、彼の大作から小品までの 大コレクションを展示する 立派な建物まで建てて、「范曽美術館」としました。ただし 一般に公開するのは 年に数日だということです(毎年2月 第3土曜日の前後3日間)。

魯迅

范曽の『 魯迅小説挿図集 』 p.3 「魯迅(ルー・シュン)先生造像」
この左ページにも、屈原の長詩「離騒」から 次の一節が記してある。
「吾令羲和弭節兮,望崦嵫而勿迫。」
(吾は羲和をして節を弭(とど)め、崦嵫(えんじ)を望んで 迫ること勿(なか)からしむ。)

( 2024 /11/ 01 )



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