ANTIQUE BOOKS on ARCHITECTURE - LIX
岡倉覚三(天心)

『 天心全集 』
Okakura Kakuzo (Tenshin) :
" A Collection of Tenshin's Writings "
1922, Nihon Bijutsuin, Tokyo, 3 volumes


神谷武夫

  天心

岡倉覚三の『天心全集』全3冊、和本、大正11年 (1922)、日本美術院
今から ほぼ 100年前の出版、帙入り、非売品
「甲」2冊計 532pp.「乙」は英文 252pp.「甲之二」が「日本美術史」



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岡倉覚三の 最初の全集

 この「古書の愉しみ」第26回で、岡倉覚三(天心)の 英文3部作 を採りあげました。岡倉は生前に 英文で『東洋の理想 (The Ideals of the East) 』、『日本の覚醒 (The Awakening of Japan) 』、『茶の本 (The Book of Tea) 』の3冊を出版しましたが、和文の本は一冊も出しませんでした。岡倉覚三が逝去したのは大正2年 (1913) でしたが、その一周忌に「再興 日本美術院」は その敷地内に「天心霊社」を建てて 彼を神格化し、死後8年目には その全集を出版して、『岡倉覚三全集』ではなく、『天心全集』と名付けました。本名の「覚三」よりも 雅号の「天心」のほうが、彼を偉大に見せると考えたのでしょう。これ以後、世の中には 次第に「天心」の名が広まっていきます。

 「日本美術院」というのは、岡倉覚三(1863-1913)が いわゆる「美校事件」によって、彼が創設したとも言うべき 東京美術学校(美校)の 校長職を追われた 明治 31年 (1898) に創立した 民間の美術団体で、橋本雅邦や 横山大観、菱田春草など、覚三に殉じて 美校の教員をやめた日本画家たちを 院生として、華々しい活動を開始したものです。しかし経済的に立ち行かなくなり、次第に衰微してゆきました。創立から 15年後の大正2年 (1913) に 覚三が逝去すると、翌3年、弟子の横山大観や下村観山らは、日本美術院を「再興」したのでした。覚三は「天心」という雅号を正式に対外的には用いませんでしたが、再興 日本美術院は これを広めるために力を尽くし、和本の『天心全集』全3巻 (1922) の出版もしたのでした。

 その半世紀後の昭和 55年 (1980) に 平凡社から ほぼ完全な『岡倉天心全集』が出て以来、それ以前の全集は 資料的な価値を失い、まして最初の『天心全集』など 知る人も少なく、その写真さえ見たこともない人が ほとんどでしょう。中央公論美術出版の『岡倉天心アルバム』(2013) では、1枚の 小さな写真のみを掲載して (p.198)、

「最初の岡倉の「全集」だが、その実質は東京美術学校での講義「日本美術史」や 漢詩、書簡の一部、英文著作の 抄訳などを収録したもので、全集というには ほど遠いものであった」

として、歯牙にも かけません。それは それで良いのですが、この「古書の愉しみ」では、今から 100年も前に出版された、和本の「全集」の たたずまいに関心があるので、見たこともない人たちのためにも、私の蔵書をスキャンして ここに紹介しようと思います。

天心   騎驢

秩入りの『 天心全集』(1922) の姿と、
「甲之一」の口絵写真の一、岡倉覚三 自筆『 騎馬人物図 』
これは『 騎驢(きろ)人物図 』の誤り。驢とはロバ(驢馬)のこと。

  『 天心全集』は、日本美術院が 日本画を主とする美術団体であったので、日本的な帙(ちつ)に入った和本の3巻本に作られ、それぞれの巻名は「甲之一」、「甲之二」、「乙」と付けられました。覚三が生前に出版した 単行本の 英文3部作は含まず、「甲之一」編は 覚三の 美術論集とし、「甲之二」編には 東京美術学校での講義録の「日本美術史」を充て、「乙」編は 覚三の 英文 短編著作集と しました。
 帙は 濃い茄子紺(なすこん)色の絹布装で、誰の揮毫とも書いていない題字の白い布が貼られ、裏には横山大観が装画を施した、趣きのあるもので、白い象牙の爪で止めます。和本の3冊も 帙と ほとんど同じ装幀ですが、もう少し明るい茄子紺色の絹布にされ、絹糸の「四つ目綴じ」となっています。「古書の愉しみ」の第 54回で紹介した、明治時代の『佳人之奇遇』 と ほとんど同じ大きさ、作りですが、『天心全集』の方がずっと厚手です(四つ目綴じの和本が こんなに厚く (3.4 cm) 製本されうるとは 知りませんでした)。本文も『佳人之奇遇』と同じ「袋綴じ」ですが、こちらは もう手彫りの「木活字」ではなく、金属活字で印刷されています。それぞれの巻の内容をスキャンして下に掲載し、そこに各巻の「目次」も 入れておきましょう。

天心

岡倉覚三の『天心全集』大正11年 (1922)、日本美術院
「甲の一」編の内容

天心

岡倉覚三の『天心全集』大正 11年 (1922)、日本美術院
「甲の二」編の内容

天心

岡倉覚三の『天心全集』大正11年 (1922)、日本美術院
「乙」編(英文編)の内容

 あまり知られていませんが、この『天心全集』の別冊として、『天心先生 欧文著書 抄訳』も 少部数 刊行されました。 上述のように、この「全集」には 岡倉覚三の英文3部作が全く含まれていませんので、それでは「全集」とは言えないのではないかという反省の声が上がったのかもしれません。また、それらの洋書が 簡単に入手できるわけでも なかったので、「抄訳」で 出しておこう ということになったのでしょう。 本巻と同年の 大正 11年 (1922) に、なぜか これだけ 洋本仕立てで 出版されました。需要が多かったらしく、少部数では不足し、翌年に再版されています。

天心

『天心先生欧文著書抄訳』の表紙と内容

 この『 天心先生欧文著書抄訳 』で翻訳の任にあたったのは、本には書いてありませんが、覚三の弟の 英文学者、岡倉由三郎(よしさぶろう) の弟子だった 福原麟太郎 だったようです。後に 福原は『英文学随筆』(1964, 八潮出版社 ) の中に、次のように書いています(p.140「私の履歴書」):

「その次に出た本は、無署名だが、『 天心先生欧文著書抄訳 』というもので、同年九月、日本美術院の出版であった。これは 今、古本屋などにあれば 稀覯本のうちかも知れない。これは 美術院が出した『天心全集』の別冊で、『東洋の理想』、『日本の覚醒』、『茶説』の三大著の抄訳のほか、「日本的見地より見たる現代美術」ほか三篇の小論文の全訳が載っており、天心の帝国大学における講義「泰東巧芸史」の梗概、追懐録 三篇が付録になっている。その付録以外 全部を 私が書いたので、定めし 間違いやなんか あるだろうと、今はこわくて 読んでいられない。これをやったのは、やはり 英文学双書の準備の 進行中であったであろう。天心のお弟子で 東大の日本美術史の講師をしていられた 中川忠順氏が その天心全集の世話をしておられ、私は 由三郎先生に命じられて、中川さんのところで 欧文関係の仕事を手伝っていた。その名残の一つが これである。」


その後の「 岡倉天心全集 」

 上に紹介した『天心全集』以後に、もっと完全な「全集」を作ろうとして、どのような「岡倉天心全集」が発行されてきたかを 概観しておきましょう。何種もの天心の全集があるので、混乱を生むことがあるようなので、ここで全部を、写真入りで明確にしておきます。

 まず 昭和 10年 (1935) に、天心没後 20年を記念して、『岡倉天心全集』が、覚三の子息の岡倉一雄の手によって 聖文閣から刊行されました。巻名に「天・地・人」とつけたのは、「天心」の雅号から来ているのでしょうか(この2、3年後には、聖文閣が2巻本で『 岡倉天心全集 上・下巻 』も 出したということですが、詳細不明です)。しかし「全集」と呼ぶには まだ資料不足でした。特に、昭和 13年(1938年)に 覚三の孫で 国際政治学者の 岡倉古志郎が『東洋の覚醒』の遺稿を発見したことにより、それを収める必要が起きたのと、書簡なども集めて 大巾の増補をすることによって、『岡倉天心全集』の「決定版」を、 昭和 14年 (1939) に出すことになりました。
 出版社は 聖文閣から六芸社(りくげいしゃ)に代わりましたが、第1巻の「東洋の理想」、第3巻の「日本の覚醒」、第4巻の「日本美術史」などの主な諸巻は、聖文閣版の 版下をそのまま使いました(最初の頃の版の扉や奥付には「発行所:聖文閣」と書かれたままです)。「決定版」の全巻内容を、下に書いておきます。

全集   全集   全集

(左)『岡倉天心全集』天・地・人の 全3巻、岡倉一雄編、聖文閣
  昭和 10年 (1935)、函入、四六判(ウェブサイトより )
  (右)『岡倉天心全集』決定版 全5巻(+別巻) 岡倉一雄編、六芸社
昭和 14年 (1939)、四六判 (ウェブサイトより )

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 岡倉天心全集 : 決定版、昭和14年 (1939) 、聖文閣版、六芸社、全巻内容

  第1巻 東洋の理想(岡倉由三郎 監修、洋々塾の、紀・高松 共訳)
      白狐(清見陸郎 訳)     年譜(岡倉一雄 編)
  第2巻 東洋の覚醒(浅野晃 訳註)  儒教時代と道教時代(桐原徳重 訳註)
      支那の美術に就いて(同)
  第3巻 日本の覚醒(福田久道 訳)   茶の書(渡辺正知 訳)
  第4巻 日本美術史(岡倉天心)   
  第5巻 応挙・芳崖・雅邦(岡倉天心)  日本の美術に就いて(同)
      東洋芸術論(加納秀夫・渡辺正知 共訳)  ボストン美術館の
      東洋芸術品に就いて(同)   近代美術の諸問題(同)
  別 巻  『 父 天心 』(岡倉一雄 著)

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 全体の編集をした 岡倉一雄は、「父の思い出」的な 長編の評伝(本人言うところの「家伝」)を書いて、全集の別巻『 父 天心 』としました。岡倉覚三の人生を知る上での 詳しく貴重な資料であって、現在は「岩波現代文庫」の一冊になっています(『父 岡倉天心』2013年)。
 第5巻にある「東洋芸術論」というのは、『天心先生欧文著書抄訳』に抄訳のある3つの 英語による講演録「東洋絵画に於ける自然」、「東洋芸術に於ける宗教」、「東洋に於ける美術鑑識の性質及価値」の新訳を まとめて「東洋芸術論」という総題を付けたものですが、ここに言う「東洋」と言うのは、ほとんど支那と日本です。

 この「決定版」と称した『岡倉天心全集』の出版の5年後の昭和 19年 (1944) に、新たな『天心全集』の出版が計画されました。十五年戦争末期のことですが、天心の『東洋の理想』の冒頭句「Asia is one アジアはひとつなり」が政府、軍部に利用されて「大東亜戦争」遂行のためのスローガンにされたために、岡倉天心の名は巷間に流布し、その新たな全集を求める声が高まったのと、横山大観らの日本美術院系の人々がこれを利用しようという気持ちが合わさって、大観らによって昭和 17年に設立された「岡倉天心偉績顕彰会」が その編集をするというものです。しかし戦局は ますます悪化し、資材不足で 出版活動も困難になっていき、昭和 19年に わずか2冊を刊行しただけで 終了してしまいました。かろうじて出た 第6巻(「日本美術史」と「泰東巧藝史」)は、そこそこ売れたようで、後に 平凡社版の『岡倉天心全集』が出るまでは、よく利用されたようです。

全集     父 天心

(左)『天心全集』第6巻「日本美術史」と「泰東巧芸史」
         岡倉天心偉績顕彰会 編纂、昭和 19年 (1944)、四六判、創元社
      (右) 岡倉一雄の『父 天心』が 長い絶版のあと、平成 25年 (2013) に
       岩波現代文庫で復刊され、『父 岡倉天心』と改題された。

 その、戦後の 平凡社版『岡倉天心全集』は、書簡や断簡零墨まで すべて集めた、完全な「岡倉全集」として 昭和 54年 (1979) から 全8巻+別巻 として刊行されました。これによって、それ以前の「岡倉全集」は 資料的価値を失い、岡倉覚三の『茶の本』をはじめとする「英文3部作」の「初版本」のように、私のような 好事家(愛書家)しか、関心を払わなくなりました。

全集
『岡倉天心全集』全8巻+別巻、平凡社
昭和 55年 (1980)(ウェブサイトより )


岡倉覚三の『 日本美術史 』

 「岡倉天心は文久2年、横浜の実家の角の土蔵で生まれたので、角蔵と名付けられたが、あまりに即物的な名を好まなかったので、大学卒業の明治 13年の頃に 覚三と改めた」
と、弟の 岡倉由三郎が 書いています。天心は 幼い角蔵のころから英語を学び、ほとんど母語のように英語を使ったといいます。明治7年 (1874) に入学した東京開成学校は 3年後に 東京大学に改称したので 東大生となり、その卒業の頃に 岡倉覚三となったわけです。「天心」というのは、ずっと後に使い始めた雅号であって、対外的にそう名乗ったわけでは ありません。
 東大生となった翌年に、「お雇い外国人」教師として来日したフェノロサに教えを受けるとともに その通訳なども務めたので、特に親しい間柄となります。明治 13年 (1880) に 18歳で卒業すると、文部省に就職しました。初めは「音楽取調係」でしたが、ボスの井沢修二とウマが合わず、明治 17年に、美術学校設立準備のための「図画取調係」に移り、以後は 美術行政一筋に活動します。

岡倉覚三

文部省に入省した頃の岡倉覚三
(『岡倉天心アルバム』2013年、中央公論美術出版刊 より
壮年期の いかつい顔の写真を見慣れていると、若い頃の岡倉は
こんなに 細おもてで 眉目秀麗だったのかと驚く。

 東京美術学校(美校)は 明治 20年 (1887) に開校し、初代校長は浜尾新(名義だけ、天心の庇護者だった)でしたが、その3年後には 岡倉覚三が わずか 28歳で 校長になりました。実質的には 初代校長です。そうした経緯や、岡倉が失脚することになる「美校事件」なども 本稿では触れず、『天心全集』に関することをのみ 書いておきます。まず「日本美術史」についてですが、明治 20年創設の 美校で 授業が開始されたのは、明治 22年 (1889) です。
 日本最初の「日本美術史」の授業は、フェノロサが英語で講じ、それを逐一 岡倉覚三が通訳する という形で行われました。日本美術についてのフェノロサの考えをよく伝えるものとして名高いのは、明治 15年 (1882) に 龍池会に招かれて行った講演録『美術真説』です

フェノロサ

『 美術真説 』フェノロサの 龍池会での 講演録
(『岡倉天心』東京芸術大学岡倉天心展実行委員会, 2007 より

 『美術真説』において フェノロサは「美術」の語を「芸術」の意に用いていますが、内容は「絵画論」であって、日本画と油絵の優劣を論じ、洋画(油絵)の勢威・蔓延に対して 日本画の美点を説き、その復興を図ったものです。これを受け継ぐのが岡倉覚三ですが、そこでは「建築」は 全く議論の外に置かれています。この「古書の愉しみ」の第 26回「岡倉覚三の『茶の本』」の 後半部 にも書いたように、この師弟関係の二人の姿勢が、世界にも珍しい、当初「建築科」のない、国立の美術学校を生んだのです。

 東京美術学校における 日本美術史の講義の 初期の担当者は、次のようでした。

   1889年度     「美学及美術史」  アーネスト・フェノロサ(岡倉通訳)
   1890ー1896年度 「美学及美術史」  岡倉覚三(美校教授・校長)
   1896ー1899年度 「美学及美術史」  森鴎外(嘱託講師)
   1899ー1914年度 「西洋美術史」   岩村透(美校教授)    

 フェノロサが 明治 23年 (1890) の7月にアメリカに帰国すると、9月の新年度から 岡倉が「美学及美術史」を担当し、3年度にわたって3回、「日本美術史」の講義をしました。その時の学生による講義録が 初めて活字にされたのが、『天心全集』の「甲之二」編です。
 学生による講義録の筆記は6種類 残されています。その中の 原安民による1年目の講義の筆記を基本とし、他の者の筆記などを参照して修正を加えたものが それで、「甲の二」編一冊全部を充てています。その目次が、すなわち 岡倉による日本美術史の時代区分になっていますので、それを次に掲げておきましょう。その区分ごとに「章」とは書いてありませんが、他との比較の便宜上 わかりやすいように 仮の「章番号」を付し、「天心全集 甲之二」におけるページ・ノンブルを付しておきます。

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    序 論 -------------------------------------------------------- 311
    第1章  推古以前 ----------------------------------------- 317
    第2章  推古時代 ----------------------------------------- 324
    第3章  天智時代 ----------------------------------------- 360
    第4章  天平時代 ----------------------------------------- 371
    第5章  平安時代 ----------------------------------------- 393
    第6章  鎌倉時代 ----------------------------------------- 423
    第7章  鎌倉時代 第二期 --------------------------------- 436
    第8章  足利時代 ----------------------------------------- 451
    第9章  豊臣時代 ----------------------------------------- 469
    第10章   徳川時代 ----------------------------------------- 475
    総 敍 -------------------------------------------------------- 520
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   昭和 19年 (1944) に 創元社から2冊のみの『天心全集』が出た時には、その時までに 見つかった、天心自身による草稿を 適宜挿入したものとして、第6巻の「日本美術史」としました。しかし 最後の平凡社版の『岡倉天心全集』(1980) では、最初の『天心全集』のものに戻って、原安民による筆記録を基本とし、その後の知見による修正を加えて、「新しい底本」を 編集したということです。現在入手しやすい「平凡社ライブラリー」版も、これを再録しています。『天心全集』の「甲の二」編と 大きな違いはありませんが、これが「岡倉の講義に最も近い内容」だと されています。
(参照:『東京芸術大学百年史』の『東京美術学校篇』第5章「授業内容」p.468 )

日本美術史

現在一番手に入れやすい、岡倉天心の『 日本美術史 』
(講義録)は、平凡社ライブラリー版 (2001) です。

岡倉覚三の『 泰東巧藝史 』

 岡倉覚三は、明治 23年 (1890) に 美校で「日本美術史」を講じ、明治 36年 (1903) に『東洋の理想』を英語で出版し、明治 43年 (1910) には 東京帝国大学 文化大学に呼ばれて、非常勤講師として「泰東工芸史」を講じました。「古書の愉しみ」の第 55回、大川周明の『 回敎概論と古蘭 』の中に 次のように書きました。

 大川周明は 初期の著作『日本文明史』の序文で、自分が影響を受けた思想家として、岡倉天心と 北一輝 の名を あげています。大川が 東京帝国大学の学生だった 明治 43年 (1910) に、岡倉は帝大に招かれて非常勤講師となり「泰東巧藝史」(東洋美術史)を講じたので、大川はそれを受講して、岡倉に感銘を受けたようです。岡倉覚三(天心)が 47歳の時です。「泰東巧芸史」の講義の筆記は 美術雑誌『研精美術』に連載されましたが、この筆記をしたのは 大川周明ではないかと、大塚健洋は 推測しています。(p.61) 」

 明治時代に西洋のことを「泰西」、東洋のことを「泰東」と呼び、「泰西名画」という言葉は ずいぶんと流布しました。「巧芸」というのは「工芸 (Craft)」ではなく、「芸術」や「美術」と同じく " Art " の訳語であって、岡倉が帝大で行った講義「泰東巧芸史」というのは、日本と中国を主とする「東洋美術史」のことです(美校で「美術史」の講義をした 20年後になります)。
 では 岡倉が なぜ 東洋美術史 と言わずに、泰東巧芸史 という 古めかしい講義名にしたかというと、「東洋美術」の語が 次第に日本以外のアジアの美術を指すようになりつつあったのに対して、岡倉は あくまでも日本美術を 中心に据えたかったからです。ですから、この「泰東巧芸史」は、半分「日本美術史」であったのです。

 しかし この「泰東巧芸史」の講義筆記は 最初の『天心全集』には 収録されませんでした。そこで、別冊の『天心先生欧文著書抄訳』に その抄録を「泰東巧芸史 梗概」として、(翻訳ではないのに)載せることにしました。ところが、そこには 岡倉が制作した東洋美術の年代や美術類別の「表」が 15点も折り込まれているだけで、本文の「梗概」など ありません。いったい どういうことかと思ったら、その冒頭に 次のような 編集記が書かれていました。

 「泰東巧芸史は、先生が晩年 東京帝国大学 文化大学に於て せられたる講義にして、実に 先生が多年の蘊蓄(うんちく)の披露 とも いふべきものなり。故に編者は 之を全集中に収めんとして、当時の聴講学生の筆記 数本を集めて 参照対校し、以って秩序ある一本を編成せんと 力(つと)めしものなり。 されども 先生の講義なるものは、感興の乗ずる所、徒(いたずら)に 区々たる順序の末に拘泥(こうでい)せざるもの 多く、時に 或(あるい)は 一半を講術して、他の一半を学生の推想に任(まか)せ、以て 自らなる啓発に資せしものあり、或は 実物写真等を示しながら 独特の警句を以て 理解せしめたるものあり、幾何(いくばく)の労苦を積むも、到底 原講義の面目を維持したる 一編の巧芸史を編成する能(あた)わず、遂に 據(よんどころ)なく、之が収録を断念したり。 さはれ、その講義の骨子ともいふべき 分類表のみを見るも、卓抜なる創見 多くして、先生の 泰東芸術に対する見解の 一班を窺(うかが)うに足るものあり。是をしも 尚且つ 全然 割愛し去るに忍びず、乃(すなわ)ち 梗概の名を以て、本編に この表を収めたり」

 要するに この「泰東巧芸史」(東洋美術史)の講義は、一冊の書物になるような 理路整然、論理明快なものでは なかったようで、大川周明が感銘を受けたのは、講義内容というよりは、日本や中国に対する 岡倉覚三の態度や姿勢、熱意や 語気だったのではないか と思われます。それでも 平凡社の『岡倉天心全集』第4巻では、上記の 創元社版の『天心全集』第6巻に所収の「泰東巧芸史」を基としながら、苦心して これを一編の論にまとめ上げて 掲載していますが、その「解題」(P.531) には なお、

「 ③ の創元社版を基に、① ④ を参照して、意味不明な箇所を訂正し、補った。しかし断片的な生徒のノートからの集積であるために、叙述の一貫性や意味不明な箇所もまだ多い。」

と 書かれています。この「泰東巧芸史」は「平凡社ライブラリー」版にも「日本美術史」と合わせて 再録されています。

*  *  *  *


 ところで 岡倉覚三(天心)は その著書『東洋の理想 (The Ideal of the East) 』の冒頭に「 Asia is One(アジアはひとつなり)」と書きました。しかし それは、ヒマラヤ山脈で区切られては いるものの、「中国文化圏」と「インド文化圏」は一体である と主張したのものに過ぎず、そこからは アジアの もう一つの文化圏である「 イスラーム文化圏」が、すっぽりと抜け落ちていたのです。その当時 日本では、イスラームは ほとんど全く 知られていなかったのですから、「Asia is One」というのは 勇み足だった、あるいは妄想的だった と言えるでしょう。『東洋の理想』には 「回教すら、剣を手にした馬上の儒教」 である などと書いていますが、これは こじつけ以外の何物でもありません。
 そしてまた「インド」と言っても、岡倉が頭に置いていたのは インドの 古代仏教美術であって、中世のヒンドゥ美術や ジャイナ美術、近世のイスラーム美術などは ほとんど考慮の外です。彼の「Asia is One」というのは、非常に偏った アジアについての観念を対象に 思い描いていたに過ぎません。ヒンドゥやイスラームの インド美術を、ファーガスンの書に従って 実際に見てきて 報告・論考を書いたのは、日本では 伊東忠太 (1867-1954) が最初です。

地図

アジアは、中国文化圏(東アジア) 、インド文化圏(南アジア)、
イスラーム文化圏(西アジア)の 三つの文化圏から成る。

 岡倉よりも もっと広くアジア全体の調査旅行をすることになる 伊東忠太が、帝国大学の工科大学 造家学科を卒業したのは 明治25年 (1892) で、その年に岡倉天心に招かれて、東京美術学校の 建築史の講師になります。 前回 引用したように、岡倉は美術史の講義において、

    リュプケの美術史 (WILHELM LÜBKE, History of Art、
     1874) を よく用いた可能性が大きい

ということなので、当初は リュプケに従って、建築についても 講義するつもりだったのかもしれませんが、岡倉はフェノロサと共に もっぱら絵画、彫刻、工芸について調査・研究をしていたので、建築についての知識は多くなく、その論述は 非常に少ない。そこで、当時 帝大の大学院生で、日本で初めて「日本建築史」を研究していた 伊東忠太を、美校の講師に招いたのでしょう。

 帝国博物館(2年後に 帝室博物館と 名称変更)で、岡倉覚三の 美術部長および理事の辞任の後を おそった 福地復一 (またいち、1862-1909) は、岡倉を引き継いで編纂主任となった 官製の『日本帝国美術略史』(稿本)を、「天皇の治世」による時代区分にしました。しかし伊東忠太は それには従わず、岡倉方式(上記の「日本美術史」の目次が示す)によって、日本建築史の時代区分を作っていきました。日本美術史についての 忠太の「師」は、天心だったのです。
 福地天香(復一)という人は 美校の「図案科」の主任教授でしたが、美術史家でもあり、岡倉を追い落とした「東京美術学校騒動」の張本人 とも言われました。 明治 30年に 塚本靖とともに「図案科」の建築図案の講師となった 大沢三之助の記述によれば、もともと 福地は 帝国博物館の一員で、古美術を研究していた 若き秀才だったので、35歳にして 岡倉によって、美校に新設された「図案科」の教授に登用されたのだといいます。それが 岡倉に反旗を翻して 追い落としを図り、その後釜(あとがま)に座ったわけですが、しかし岡倉とは 歳が わずか一つ違いであり、しかも 岡倉同様 短命で、47歳で早世しました。昔は「人生たったの 50年」と言ったように、平均寿命は短かったのです。夏目漱石は 49歳で没し、岡倉天心も 50歳で世を去りました。

 ところで、今まで私が読んだ、岡倉天心関係の本で 最も興味深かったのは、松本清張の『 岡倉天心 その内なる敵 』(1984、新潮社)です。これは今から 40年くらい前に『芸術新潮』に連載 (1982 ー83) されたもので、綿密な資料調査によって 天心の私生活と「生きざま」を暴いたものとして、大評判になったらしい。私が読んだのは ずっと後ですが、それまで 謎に思っていた 天心の人生が、やっと分かった という気になったものです。
 本稿では、岡倉天心の波乱に満ちた人生や 乱れた生活については 何も書きませんので、そういうことに興味のある向きは、松本清張の『岡倉天心 その内なる敵』や、岡倉一雄の『父 岡倉天心』を読むことをお勧めします。

松本清張

松本清張 著『 岡倉天心 その内なる敵 』昭和 59年 (1984)
21 x15.5cm, 261pp. 新潮社(『芸術新潮』に連載 1982ー83)


高山樗牛の「日本美術史」

 『エウゲニ・オネーギン』を思わせるような、滝口入道と 横笛の悲恋を描いたロマン『滝口入道』の著者である文学者・思想家の 高山 樗牛(ちょぎゅう, 1871-1902)は、明治 32年 (1899) から 34年 (1901) にかけて(岡倉が美校で「日本美術史」の講義をした 10年後で、 官製の『日本帝国美術略史』が書かれていたのと同じ頃)「日本美術史」を書き継いでいました。ところが 古代から平安朝前期までを書いたところで、肺結核によって 明治 35年 (1902) に 、天心よりも 漱石よりもずっと若くに、わずか 31歳で死去してしまったために、中断してしまいました。
 高山樗牛こと 高山 林次郎(りんじろう)の遺稿は、死の翌年の明治 36年 (1903)、帝大で同期の親友だった、 後の高名な宗教学者となる 姉崎正治(あねさき まさはる, 1873-1949) らによって整理され、その翌年の明治 37年 (1904) に、『天心全集』と同じように 雅号を用いた『樗牛全集』として、全5巻で刊行されました。『天心全集』の 18年前(英文『東洋の理想』の出版の翌年)です。

 その 第1巻 (1904、博文館) が「美学及美術史」の巻で、その巻の後半 233ページ分が『美術史 未定稿』です。高山林次郎は 早逝したにもかかわらず、「美的生活」を論じて、それを 理性や道徳より上に置いた主張をしたことなどで人気があり、『樗牛全集』は 多くの刷りを重ね、若い世代の圧倒的な支持を得て、何度も再刊されました。それは、言ってみれば「青春の文学」だったのであり、マックス・シュティルナーに通じるアナーキズムでもあったでしょう。北村透谷(25歳)や 立原道造(24歳)、中原中也(30歳)、高橋和己(39歳)のような「夭折の文学者」でした。

樗牛 

『樗牛全集』第1巻、明治 37年 (1904) 、博文館
高山林次郎(樗牛)の「美学及美術史」を収録

 最初の「樗牛全集」は 明治 37年 (1904) 1月、博文館から 第1巻「美学及美術史」が出て、2月には再版、明治 39年には第5版、大正2年 (1913) には第 17版、 次いで大正3年 (1914) には再編集されて、日記なども含めて全7巻で再出版されました。同年には増補縮刷の新書版全集も出され、大正 13年には第 43版という、ベストセラーにしてロングセラーでした。
 思想的にはニーチェの「天才」、「超人」思想を賛美し、「文明批評家としての文学者」をはじめとする論説によって、日本におけるニーチェ理解(流行)の端緒を開いたと言えます。それも、「樗牛全集」が よく売れた理由の一つでしょう。

 高山樗牛(林次郎)は 東京帝国大学 文科大学に入学し、哲学科に在学中に『滝口入道』を書いて 読売新聞の懸賞に主席入選をして、雑誌『帝国文学』の編集委員となるという 早熟ぶりを発揮しました。大学では主に 美学・美術史を専攻していたので、卒業後 二高の教授や大学講師などを経て、明治 33年 (1900) に 文部省から「審美学」研究のため 独・仏・伊 への3年間の給費留学を命じられました。夏目漱石と同年のことです。ところが樗牛は その「洋行」の送別会後に喀血して 肺結核の療養生活に入ることを余儀なくされて 留学を断念し、帰国後に予定されていた 京都帝国大学の教授の地位も棒に振りました。

 明治 34年 (1901) には 帝大講師として「日本美術」を講じながら『日本美術史』を執筆していましたが、病が悪化し、翌35年 (1902) に帝大講師を辞任し(この年に論文『奈良朝の美術』により 文学博士号を授与されていますが)、12月に世を去りました。高い知性と才能に恵まれていたにもかかわらず、不運な人生でした。高山樗牛が もうすこし長く生きていれば、『稿本 日本帝国美術略史』と並ぶ、日本最初の「日本美術史」を 書き上げていたことでしょう。
 評論における「剛毅果断」な主張と「秋霜烈日」の論調をもって 時代の寵児となった高山樗牛は、明治 34年 (1901) に 雑誌『太陽』に書いた「美的生活を論ず」で、人間は道徳や倫理よりも 本能にしたがうべきもので、それが人生の幸福であるとし、それを「美的生活」と呼びました。「 六. 美的生活の事例」において、

「詩人、美術家が 甘んじて その好む所に殉じたるの事例は、読者の既に 熟知する所ならん。畢竟(ひっきょう)、芸術は 彼らの生命なり、理想なり。これがために生死するは、詩人たり 美術家たる 彼らの天職なり。この天職を全うせんが為に、彼らの或る者は 食を路傍に乞えり、或る者は その故郷を追放せられたり、或る者は 帝王の怒りに触れて 市に腰斬(ようざん)せられたり。あゝ 死を以って脅(おびや)かすべからざる 彼らの安心は 尊きかな。」

と書き、芸術至上主義的な立場を 鮮明にしました。この論調で 全体が書き上げられていれば、ずいぶん興味深い「日本美術史」になったことでしょう。



付録

 岡倉覚三(天心)は 明治 26年 (1893) に、美校生の 早崎稉吉(はやさき こうきち)を助手として5ヵ月間の「清国美術調査」に赴きました。その旅の中で 最も有名なエピソードは、中国の4大石窟の一つとされる 「龍門」の石窟を「発見」したことでした。そこには 高さ 17メートルの 丸彫りの大仏(廬舎那仏)(鎌倉の大仏の 1.5倍)をはじめとする、石窟内の多くの仏像があります。その画像をネットで見ようとしたら、数は山ほどあるのに、あまり良い写真が 出ていないことに気が付きました。そこで、私が「中国のイスラーム建築」の取材旅行に行った時に、途中で寄った折に撮影した 龍門大仏の写真をスキャンして、ここに掲載しておくことにしました。出典さえ示せば、自由に使ってもらって構いません。

龍門   龍門   龍門

龍門の大仏(廬舎那仏) 2007年6月25日 撮影
35ミリのフィルム・カメラ(ニコンF5)での長時間露光
フィルムはベルビア100、レンズは PCニッコール28mmと 望遠105mm


( 2024 /10/ 01 )


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