『 回敎概論 』 と 『 古蘭 』 |
今回の「古書の愉しみ」は、戦前から戦後にかけて出版された、イスラームの入門書と、「クルアーン」の翻訳書です。日本で最初にイスラーム教の詳しい概説書を書いたのは、大アジア主義者で、大正・昭和時代における右翼の巨頭とされる 大川周明 (1886-1957) だと聞いたら、誰でも意外に思うことでしょう。大川周明というのは、前回の「古書の愉しみ」で書いた東海散士(柴四朗)と思想的、政治的に目指したところが似ていますが、年代的には 散士よりも 35年ほど後の人で、東海散士が明治を体現したような人であるのに対し、大川周明は 大正時代から昭和戦前に多岐な活動をし、影響力の大きな著作をした人でした。「東京裁判」を生き延びた戦後の晩年には、若き日の志向を再燃させて イスラーム研究にうちこんだのです。 筑摩書房の『現代日本思想体系』第9巻 (1963) は「アジア主義」の巻で、中国文学者で思想家の 竹内好 (1910-1977) が編集し、巻頭に 57ページにわたる解説「アジア主義の展望」を書いています。この巻では12人の思想家が扱われ、彼らの著作の一部が それぞれ載せられていますが、第1章「展望」の最初に アジア主義の「原型」として、岡倉天心の『東洋の 理想』と 樽井藤吉の『大東合邦論』が載せられています、『東洋の理想』の冒頭の句 "Asia is one"(アジアはひとつなり)が 戦争中に日本ファシズムに悪用されて、人口に膾炙したことから当然と言えるでしょうが、竹内好は 「岡倉天心はアジア主義者として孤立しているばかりでなく、思想家としても孤立している」 と書いています。岡倉はもっぱら美術界で活躍したのだから 「これを帝国主義の賛美と解するのは、まったく 原意を逆立ちさせている」と。
大川周明は初期の著作『日本文明史』の序文で、自分が影響を受けた思想家として、岡倉天心と 北一輝の名をあげています。大川が 東京帝国大学の学生だった明治43年 (1910) に、岡倉は帝大に招かれて非常勤講師となり「泰東巧藝史」(東洋美術史)を講じたので、大川はそれを受講して、岡倉に感銘を受けたようです。岡倉覚三(天心)が47歳の時です。「泰東巧芸史」の講義の筆記は美術雑誌『研精美術』に連載されましたが、この筆記をしたのは大川周明ではないかと、大塚健洋は推測しています。(p.61)
大川周明や、二・二六事件で刑死した 北一輝をはじめとする右翼には、革命主義の左翼と似たような「日本改造」と「アジア連帯」の意識が強くありました。彼らは 若い時に社会主義者だった者が多く、立花隆の『天皇と東大』(2012,文春文庫)には 明治から昭和にかけての 東大を中心とする知識人・学生の思想と行動が 実に詳しく描かれていますが、立花は しばしば、 当時の極右と極左は、天皇を かつぐかどうかの一点を のぞくと、心情的に かなり近いところにいた と書いています。 では「アジア主義」とは何かというと、大川が大正5年に母に宛てた手紙の中に、全亜細亜主義とは
「亜細亜に於ける欧州人の横暴を挫き、日本が盟主となりて全亜細亜を だと書いています。 「古書の愉しみ」の『佳人の奇遇』に書いたように、東海散士の望みは、
に ありました。これが、明治初期の「アジア主義」だったと言えますが、これが大川周明の言葉だと言われても違和感はありません。その後 日本帝国は「日韓併合」や「満蒙奪取」をすべく、「アジア主義」の言葉を乱用していき、それが「大東亜共栄圏」という主張になります。次第に東海散士の素志を超えていったわけです。大川周明は大正14年 (1925) に『亜細亜・欧羅巴・日本』という本(昭和18年の『大東亜秩序建設』に再録)を出し、「亜細亜問題」が 第一次大戦後は、
「欧羅巴の支配に対する亜細亜復興の努力を意味するに至った」 ので、 大川は五・一五事件で 禁錮5年の有罪判決を受けて服役しましたが、戦後の「東京裁判」では 東条英機などと並ぶ重要な被告(A 級戦犯容疑)となったものの、裁判中に精神の異常をきたし、精神病院(松沢病院)に収監されて、刑をまぬがれました。 建築家・建築史家の伊東忠太は国粋主義者であり、翼賛体制の建築界で指導的な役割を演じたので、建築界では 戦後は戦犯のように見なされて無視され、ほとんど忘れ去られ、戦後 再評価されるまでに半世紀を待たねばなりませんでした。大川周明の場合も全く同じです。『大川周明全集』全7巻が出版され始めたのは 彼の没後、戦後16年たった昭和36年 (1961) でした。完結までに13年もかかっています。伊東忠太同様、彼の 天皇制をベースとする国粋主義者としての活動は否定されるにしても、インドを初めとするアジア研究や イスラーム学者としての著作は、大きな評価に値します。 『大川周明全集』は昭和49年 (1974) に完結し、翌 昭和50年 (1975) に出版された筑摩書房の『近代日本思想大系 21. 大川周明集』には、橋川文三による懇切な解説のほかに 1969年の竹内好の講演記録「大川周明のアジア研究」が16ページにわたって再録されていて、これが大川周明再評価の きっかけになったと思われます。竹内はそこで
「大川周明というのは、かなり重要な人物だと思うのです。いわゆる右翼思想家と一括されて と言い、その理由を連綿と語り、とりわけ大川のイスラム研究を高く評価し、『回教概論』を、イスラムの概説書でこの本の右に出るものは、当時も それ以後もないと思う、とまで言っています。
(左)大塚健洋 著『 大川周明、ある復古革新主義者の思想 』 大川周明の全体像が本格的に論じられたのは、平成時代になってからだと言えるでしょう。その先陣をきったのが、平成7年 (1995) に中公新書で出た 大塚健洋(たけひろ, 1958- ) の『大川周明』で、12年間の研究の成果だと「あとがき」にあります。「復古革新主義者」としての大川の人生と思想が くっきりと語られています。現在は 講談社学術文庫で出ています。
● 大川周明論の系譜
大川周明は山形県鶴岡の生まれで、隣県の石川啄木と同年の生まれでした。熊本から大川の庄内中学の校長になっていた羽生慶三郎らの薫陶を受けて、遠い熊本の第五高等学校に入学しました。五高時代に日露戦争がおこりますが、幸徳秋水、堺利彦が出していた「週刊平民新聞」を 創刊号(明治36年)から購読して社会主義者となっていた大川は、五高における言論において 大いに活躍し、「伝説的な英雄」になったらしい。 高校を卒業すると 大川は東京帝国大学の宗教学科にはいり、ヨーロッパ哲学の本も一通り読み、キリスト教に大接近しましたが、洗礼を受けることはなく、むしろ 教授の 高楠順次郎(たかくす じゅんじろう, 1866-1945) にサンスクリット語を習い、「ウパニシャッド」を熟読し、大学時代を通じて「印度哲学」にのめりこみます。卒業後は就職もせずに 本ばかり読んでいましたが、次第にイスラームに関心が移り、猛勉強をして「クルアーン」の翻訳にも取り組んだようです。しかしアラビア語の習得が追い付かずに 中断してしまいました。彼は語学の達人で、英語、フランス語、ドイツ語、サンスクリットの各言語に通暁し、中国語、ギリシャ語、アラビア語も学びましたが、「クルアーン」を自在に読みこなすほどではなかったわけです。自伝的回想録の『安楽の門』には、
「一顧すれば三十五年の昔なり、 われ大学を卒へて数年の後、 帝大図書館の特別閲覧室に、 とあります。鼻高男とは大川周明のことで、大川が 毎日イスラーム研究に打ち込んでいたのを、横目で見ていたのでしょう。 さて、大川周明は 大正2年 (1913) に古本屋で見つけた、インド「国民会議派」の党首をつとめたこともあるヘンリー・コットン (Henry Cotton, 1845-1915) の著作、" New India, or India in Transition " (1885年、「新しい、変わりゆくインド」) を読んで、長く英国の植民地となって抑圧され、収奪されてきたインドの苦難と惨状を知って 衝撃を受けました。それを契機として、それまで読んできた古典インドとは違った 現代のインド研究を始め、そしてアジア諸国の近代史研究、さらには 近世ヨーロッパの植民史および植民政策の研究に没頭することとなります。その過程で、独立のための「宗教と政治とに間一髪を容れぬ マホメットの信仰」に、一層 心惹かれたのでした。 一方 大川は松村介石の「道会」(初めはキリスト教 日本教会、次第に新宗教的修養団体となる)の会員となり、機関紙『道』の編集人となっていましたが、明治45年 (1912)に、松村の依頼で 歴代天皇の『列聖伝』を編集・執筆すべく、初めて日本史の研究を始め、『古事記』『日本書紀』をはじめとする「六国史」その他を読みふけります。これが彼に 日本主義への道を開くことになりました。『列聖伝』は刊行されなかったようですが、昭和2年 (1927) の『日本精神研究』、そして昭和14年 (1939) の『日本二千六百年史』などの著作は その産物で、次第に国粋主義に傾いていきます。
大川は1919年から満鉄(南満州鉄道株式会社)系列の東亜経済調査局(1908年創設)に謹務し、1929年に理事長となるかたわら、1920年から拓殖大学教授、1938年には法政大学教授を務めました。講義内容は「精神面の日本主義、内政面の社会主義、外交面のアジア主義」を柱としました。 さて、大川周明は 学者として多作の人で、かなりの数の著作を残していますので、その一覧表を作ってみました。これらを一覧するだけで、大川の言論活動の多彩さと、そのアジアと人間解放への一貫した志向が解るでしょう。(大川周明の著作の多くは、国立国会図書館のデジタル・コレクションで読むことができます。)
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『 大川周明全集 』全7巻 函入り、岩崎書店 (ウェブサイトより)
大正8年 (1919) 8月、大川周明は満川亀太郎と図って、現状打破の実践的組織を設立し、陶淵明の詩からとった「猶存社 (ゆうぞんしゃ) 」と名付けました。国家改造を目的として創立された最初の国家社会主義系の右翼団体であるとは言えますが、復古日本主義ではなく「革新右翼」の源流であり、日本帝国の改造と アジア民族の解放を唱え、学生、軍人などに影響を与えました。北一輝を 猶存社の中枢同志とすべく、大川が上海まで迎えに行って、2日間話し込みました。帰国した北一輝の『国家改造案原理大綱』を基本とし、「革命日本の建設」、「日本国家の合理的組織」、「民族解放運動」、「道義的対外政策の遂行」などの綱領を掲げたのです。 大川周明の アジアに関する前期の代表的著作は『 復興亜細亜の諸問題 』です。この著作は大川が10年の研鑚をへて、今からちょうど百年前の大正11年 (1922) に大鐙閣から出版した大著ですが、大評判というわけでは なかったらしい。それが15年以上経ってから、アジア問題が世人の関心を引くようになり、明治書房の高村有一に見い出されて 昭和14年 (1939) に復刻出版され、広く読まれるようになりました。下記の目次を見れば、若き大川が いかに熱心にアジア諸国の情況を考究・洞察していたかが解ります。私には東海散士の『佳人の奇遇』が思い出され、その続編のような印象さえ受けます。本は全12の部分からなり、それぞれ番号だけで「章」とは書いてませんが、引用しやすいように「章」としておきます(次の本においても)。第13章だけ 再出版時に削除されたのは、パレスチナの状況が大きく変化したせいでしょうか。
●『 復興亜細亜の諸問題 』大正11年 (1922) の 目次建て
その20年後の 太平洋戦争末期の昭和18年 (1943) には、戦犯容疑の中核となるような著作『大東亜秩序建設』を書き、国粋主義的なアジア主義者として、
「世界新秩序実現としての 復興亜細亜の世界史的意義を 闡明(せんめい)して、 ● 『 大東亜秩序建設 』昭和18年 (1943) (全集版108ページ分) ● 『新亜細亜小論』 その続編、翌 昭和19年 (1944) (全集版66ページ分)
入院中に大川の精神病が完治したにもかかわらず 裁判を再開しなかったのは、民間の一思想犯を 死刑にまでもっていくことに、連合軍のためらいがあったのかもしれません(大川の盟友・北一輝は、二・二・六事件 (1936) の裁判で 過度の容疑をかぶせられて、死刑になっていました)。こうして裁判を免れて 生き永らえたおかげで、大川周明は 長期の入院期間中に、病状回復して イスラーム研究と「クルアーン」の翻訳に没頭することができたのでした。
戦後、晩年の大川は 昭和26年 (1951) に 自伝的な回想記『安楽の門』を書いていますが、年代記的な自伝ではなく、精神的な遍歴と、尊敬する人々の思い出が綴られています。彼は若い時から いくつもの宗教に沈潜し、それらへの蘊蓄(うんちく)は実に深いものでしたが、結局は「天」を神として仰ぐ日本教の信徒だったように思われます。特定の宗教や特定の神には帰依しませんでしたが、「宗教心」は十分すぎるほど持ち、それは「道義心」と言い換えても良いような印象を受けます。この本の後半の、道学者のような「談義」は 少々退屈です。 ところで、『近代日本思想体系』の第21巻「大川周明集」(1975、筑摩書房)所収の、竹内好による解説的「大川周明のアジア研究」(1969年の講演記録)の最後の部分が、最も 腑に落ちる 大川評価であると思います。
大川周明は大正7年 (1918)、32歳の時に満鉄(南満州鉄道株式会社)の東亜経済調査局(1908年創設)に奉職し、翌年編集課長となりました。昭和4年 (1929) に調査局が満鉄から独立して財団法人となったときに理事長に就任します。昭和13年 (1924)に 日本の南方進出に貢献する人材を育てることを目的とする附属研究所を創設し、大川が所長となって、全国から選抜した、中学校卒の青年の小人数教育にあたるとともに、毎年 中国・満州に出張して調査研究をします。この研究所(在・大崎)は「大川塾」とも呼ばれ、復興アジアの独立への人材供給のため、終戦で閉鎖されるまでに 第6期生まで育てました。しかし 大川には中国革命への関心が高くなく、むしろ この東亜経済調査局附属研究所を、イスラーム研究の基地にしていきます。戦時中、この大川塾でアラビア語講師を努めた 若き井筒俊彦 (1914-93) は、後年 次のように述べています(『井筒俊彦著作集』別巻 対談集、1993、中央公論社, p.379)
そうした資料に基づいて書かれた 大川周明の『回教概論』は、 今からちょうど 80年前の 昭和17年 (1942) に 慶応書房から出版されました(福沢諭吉が興した慶應義塾出版局とは関係がありません)。宗教としてのイスラームの概説書ですが、下の目次に見られるように スーフィズムについては まったく触れられていません。そのことを除けば、これは今も優れた、歴史から教義に至る イスラーム教全般の概説書です。
さて この書名の「回教」という用語についてですが、かつて この HP の『中国のイスラーム建築』の総論のところに、次のように書きました。
日本では 禁止されているわけではありませんが、1982年に平凡社から『イスラム事典』が刊行され(2003年には『新イスラム事典』となる)、2002年には岩波書店から『岩波イスラーム辞典』が刊行されて、今では「回教」という言葉を使う人は稀でしょう。また 日本では戦前・戦中に中国のことを「支那」「シナ」と呼んでいましたが、そこに侮蔑的意味合いが含まれていたので、戦後は使われなくなったのと同様、「回教」という呼称も 用いない方がよいと思われます。となると、大川周明の「戦前右翼」のイメージと、「回教」という時代錯誤的な用語(マホメットという呼び名もそうですが)のために、大川周明の『回教概論』は もう読む価値はないものと みなされて、特に歴史的興味のある人以外は 手に取らないのではないかと思われます。 しかし そうした用語の点を除けば、これは今でも優れた「イスラーム教の概説書」なので、何か 改善方法はないものかと思います。たとえば、文庫本の主タイトルを『イスラーム教概説』として、副題を「大川周明の『回教概論』」とするとか。そして、本文を現代仮名づかいに変えているのであれば、「回教」をすべて「イスラーム」に変え、「古蘭」をすべて「クルアーン」に変え、「マホメット」をすべて「ムハンマド」に変えても良いのでは ないでしょうか。すでに「印度」を「インド」に、「欧羅巴」を「ヨーロッパ」に、「亜細亜」を「アジア」に、「基督教」を「キリスト教」に 変えているのですから。
(左)岩崎書店版、大川周明著『 回教概論 』 . 『 回教概論 』は、大川が存命中の昭和29年 (1954) に 岩崎書店から復刻されたことがあります。実物は未見ですが、慶應書房版と同じ大きさ、同じページ数ということですから、改定版でもなく 新版でもなく、まったくの復刻版で、装幀だけを変えたのだと思われます。1992年に「中公文庫」で出たあと、現在は「ちくま文庫」で出ているので 簡単に入手できますが、上述のように 回教という名称が古めかしいので、若い人たちは 敬遠しがちです。 この『 回教概論 』では もっぱら宗教としてのイスラームが概説されていて、建築その他の文化・芸術については全く触れられていません。現在 最も優れた イスラーム入門書と思われる 井筒俊彦の『イスラーム文化』(1991, 岩波文庫)も そうです。イスラーム芸術を代表するのは文学と建築ですが、日本でイスラーム建築について最初に調査・研究したのは伊東忠太で、昭和6年 (1931) に早稲田大学で「回教建築」について講義しました。それをまとめたのが『伊東忠太建築文献』の第4巻『 東洋建築の研究、下 』(1937, 龍吟社)に収録されている「回教建築」ですが、全40ページたらずのものなので、単行本になるほどの分量ではありませんでした。日本で最初に出版された 本格的なイスラーム建築史は、それから半世紀後、私が翻訳した アンリ・スチールラン (Henri Stierlin) の『イスラムの建築文化』 (Architecture de l'Islam )で、昭和62年 (1987) のことです(原書房)。
「クルアーン」の邦訳題は「古蘭」「香蘭」「可蘭」「克蘭」「コーラン」などがあり、これらに、仏教経典にならって「經」をつける場合もありますが、大川は 王文清の漢訳に従って、邦題を『 古蘭(コーラン)』としました。中国では「古蘭經」が一般的のようですが、発音はグーランジンになり、「香蘭」だとシャンラン、「可蘭」「克蘭」だとケーランです。「經」は「たていと」の意で、「経」はその新字体です。日本語で「コーラン」と呼んだのは、英語および 独語表記の "Koran" や、 仏語表記の "Coran" によります。アラビア語では 定冠詞を付けて "al-Qur'ân" 「アル・クルアーン」です。
大川周明 訳註 『 古蘭 』 昭和25年 (1950)、岩崎書店 これはアラビア語からの直接訳ではなく、英訳や仏訳、独訳、中国語訳などを参照しながらの「重訳」です。翻訳の文体は、戦後の「クルアーン」翻訳がどれも口語体なのに、大川の訳は それまでのふたつと同じく、昔ながらの荘重な漢文的文語です。そのため 後述のように、それから半世紀以上たった平成 21年 (2009) に、書肆心水から『 文語訳 古蘭 』の題名で 復刻されることになります。 『大川周明全集』の第7巻には、『 回教概論 』と『古蘭』の翻訳注解の2冊が 完全復刻で収録されていて(全 1,136ページ)、その解説には、次のように書かれています。
「大川周明博士の「古蘭訳註」は、古蘭原典の傑出せる日本語訳である。
この本では 各章(スーラ)の冒頭に、それがいかなる章であるかを大川が解説しているので、初心者には便利でしょうが、すでに詳しい人には邪魔かもしれません。というように、懇切丁寧に註解しているのが、この書の特徴です。
大川周明の『古蘭』は「クルアーン」の 最初の邦訳ではありません。日本で最初に「クルアーン」を全訳したのは 坂本蠡舟(れいしゅう)、本名 坂本健一 (?-1930) で、『世界聖典全集』の一部として刊行されました(世界聖典全集刊行会編)。これは、ジョージ・ セイル (George Sale, 1697-1736)、ジョン・M・ロドウェル (John Medows Rodwell, 1808-1900)、エドワード・H・パルマー (Edward Henry Palmer, 1840-82) らの 有名な英訳版からの「重訳」で(アブドゥル・カーディル (Abd al-Qadil) のウルドゥ語訳にも拠っているそうです)、『コーラン經』全訳 上下2冊(『世界聖典全集』の第14, 15巻)として、大正9年 (1920) の出版です。 これにくらべると 大川周明訳の『古蘭』の出版は、これより 30年も あとのことになります。翻訳者の坂本健一は 明治31年 (1898) に東京帝国大学史学科を卒業した文学士で、『コーラン經』より前の明治32年 (1899) に、次回に紹介予定の『麻謌末(マホメット)』を書いたことでも 知られています。『コーラン經』を含む『世界聖典全集』は、昭和5年 (1930) に 改造社から 新装で再刊されました。 ちなみに、中国では この『コーラン經』を1927年に漢訳した『可蘭經』が 最初だそうです。その数年後の1932年には 王静斎 (1879-1949) が、アラビア語から直接 中国語に全訳しました (『古蘭経譯解』)。
『世界聖典全集』第 14, 15巻「回々教」坂本健一訳『コーラン經』上・下 イスラーム教に比べて、日本におけるキリスト教の受容はずっと早く、『聖書』の全訳が完成したのは『コーラン經』より30年以上早い 明治20年 (1887) で、今でも『文語訳聖書』として用いられています。
『世界聖典全集』を刊行した松宮春一郎 (1875-1933) という人は、詳しいことは不明ですが、調べれば調べるほど不思議な人で、学習院大学を出た学士で 中央大学の事務部長を務めたということですが、中途から出版を志し、大正時代に 実に大仕掛けな 教養主義の全集・叢書・文庫を出版しています。全集は予約出版で、まだ全集本の円本ブームより だいぶ前だというのに、その資金や顧客はどうやって集めたのでしょうか? よほど資産家の家柄だったのか、あるいは強力なパトロンを見つけたのでしょうか。
次いで大正9年 (1920) に、松宮春一郎は全30巻の『世界聖典全集』の出版を始めました。これは前述の、大川周明の師である、帝大教授で宗教学者の 高楠順次郎(たかくす じゅんじろう)によって推進された企画で、高楠のオクスフォード大学での恩師である英国の宗教・言語学者のマックス・ミューラー (Friedrich Max Müller, 1823-1900) が編纂して、1879年から1910年にかけてオクスフォード大学出版局から出版した、全50巻の 野心的な大全集 "Sacred Books of the East" (『東方聖典叢書』)に倣ったものです。松宮が大正9~12年 (1920~23) に出版したのは、前輯15巻 + 後輯15巻の 日本人学者の翻訳による宗教学の聖典全集で、出版社の名称は「世界聖典全集刊行会」としていました。造本も装幀も立派な大全集です。大出版社でもないのに、今から百年も前に、よくも こんな出版ができたものです。 坂本蠡舟 訳『 コーラン經 』の奥付と、粋で豪華な外装
英国の『東方聖典叢書』には ヘルマン・ヤコービの 名高い『ジャイナ教聖典』全2巻があり、日本の『世界聖典全集』には 鈴木重信の『耆那(ジナ)教聖典』があって、埴谷雄高は ここから『死霊』のイメージのもととなったジャイナ教の知識を得たらしい。
『 世界聖典全集 』第 14, 15巻「回々教」坂本蠡舟 訳『コーラン經』
『興亡史論 叢書』は昭和5-7年 (1930-32) に 平凡社から全20巻が復刻され、『世界聖典全集』は昭和4ー5年 (1929-30) に 改造社から、装幀を変えて 全30巻が復刻されました。
『世界聖典全集』第 14, 15巻「回々教」坂本蠡舟 訳『コーラン經』
坂本健一という人は 生年不明ですが、「ウィキペディア」には「1898年に東京帝国大学史学科を卒業。北京京師大学堂(現・北京大学)への7年間の出向を経て著述業に従事」とあります。帝大卒業の翌年、1899年に 博文館の「世界歴史譚」シリーズの第6編、『麻謌末(マホメット)』を書いていますから、学生時代からイスラーム史に傾注していたのかもしれません。それで大正9年に『世界聖典全集』が刊行された時に、『コーラン經』の翻訳を依頼されたのでしょう。彼は一般向けの西洋史や東洋史の本を 書いたり 訳したりしましたが、大学教授にはならなかったらしく、 昭和5年 (1930) に 民間の学者として亡くなりました。
また固有名詞については、アラビア語ではなく、キリスト経典による(ノア、モーセ、アブラハムのごとく)としています。しかし、エジプトは「埃及」、マホメットは「 麻訶末」、コーランは「可蘭」と 漢字表記にしています。
「クルアーン」の二番目の邦訳は、高橋五郎と有賀阿馬土(あるが あまど)の共訳になる『 聖香蘭經(イスラム教典)』で、昭和13年 (1938) に「聖香蘭經刊行会」から刊行されました。英訳版か仏訳版からの重訳であろうとされています。坂本健一訳の『コーラン經』は、昭和4年 (1929) に改造社から『世界聖典全集』全部が再刊されて、そこに含まれていますが、それからでも 10年近く経っていますし、扱いやすい1巻本なので、戦後に大川周明訳の『古蘭』が出るまで、これも ある程度普及したのかもしれません。といっても、「クルアーン」を読んでみようという人は ごく限られていた時代ですし、古書業界にも めったに出ないところを見ると、発行部数はごく限られていたのでしょう。
高橋五郎・有賀阿馬土 共訳『 聖香蘭經(イスラム教典)』
高橋五郎 (1856-1935) という人は英文学者で、本名は高橋吾良、キリスト教の『新約聖書』などの翻訳・著述家だったので、クルアーンの英語版からの邦訳を 依頼されたらしい。 有賀は事業を引退してから、イスラーム研究に邁進し、『聖香蘭經(イスラム教典) 』の共訳もしました。おそらくは まず高橋が翻訳をして、それを有賀が ムスリムの立場から検討し、修正を加えたのでしょう(その校正原稿が現存しているそうです)。本の奥付には、もう一人の共訳者として 山口瑞穂の名が並んでいますが、扉や劈頭ページには書いてないので、補助的役割だったと思われます。
高橋五郎・有賀阿馬土 共訳『 聖香蘭經(イスラム教典)』
「クルアーン」の三番目の邦訳が、上述の 大川周明訳『古蘭』(岩崎書店)になります。出版は 戦後の 昭和25年 (1940) になりましたが、それから半世紀以上たった平成21年 (2009) に、書肆心水から『 文語訳 古蘭 』として2巻本で復刻されました。戦後の「クルアーン」翻訳は どれも口語体なのに、大川の訳は それまでの ふたつと同じく文語体です。そこで、書肆心水は『 文語訳 聖書 』の向こうを張るものとして、『 文語訳 古蘭 』と題して、それを 売り物にしました。確かに口語訳よりも 荘重な印象があるので、宗教書としては こちらをとる人もいることでしょう。ただ、それであるのに「糸綴じ」でなく「無線綴じ」であるのは いただけません。本を 任意のページで開いたままに しておくことができず、無理に開けば ノドが割れてしまいます。 完全な復刻版ではなく、再刊というべきもので、漢字が新漢字になっていますが、行間隔が やや狭まっているので、読み易さは 岩崎書店版と同じ程度です。「凡例」として 復刻の編集方針が書いてありますが、解説の類は一切 加えてありません。
大川周明 訳・註釈『 文語訳 古蘭 』上・下,書肆心水
大川訳の出た7年後の昭和 32年 (1957) には、初めてアラビア語から直接翻訳した 井筒俊彦 (1914-93) 訳の『 コーラン 』上・中・下が 岩波文庫で出ました。それまでの文語体の訳に対して 読みやすい口語体であり、しかも世界に冠たるイスラーム碩学の訳なので、現代では イスラームに興味をもって「クルアーン」を読んでみようと思う人も、文筆家が「クルアーン」から引用をする時にも、この井筒俊彦の名訳『コーラン』を用いるのが一般的でしょう。
井筒俊彦 訳『 コーラン 』上・中・下、ジャケット、岩波文庫
「神憑(かみがか)りの言葉。 そうだ、『 コーラン 』は 神憑りの状態に入った一人の
そういった感じの 口語訳になっています。
昭和時代には 種々の翻訳「クルアーン」や解説書が出版されましたが、アラビア語からの全訳は 井筒訳のあと、昭和45年 (1970) に 藤本勝次・伴康哉・池田修の共訳で5番目の全訳としての『コーラン』が、中央公論社の「世界の名著」全集の第15巻として出版されました。井筒訳よりも さらに口語風で 読みやすくなっています。糸綴じで 手頃な大きさの一巻本であるのも好評でしたが、現在は「新書・中公クラシックス」の 無線綴じ2巻本となっています。
(左)「世界の名著」15.『 コーラン 』藤本勝次・伴康哉・池田修 共訳、函 その2年後の 昭和47年 (1972) に、田中四郎によるアラビア語からの抄訳が『秘典コーランの知恵』という題名で出ました。これはスーラを「啓示」や「女性」「金銭」など 14のテーマに分類して編集していますが、どこにどの章があるのか 知るのは容易でないので、初めて『コーラン』の内容を知りたいという人以外には、あまり利用価値はなさそうです。 昭和47年 (1972) には、日本で最初の「ムスリムによる」アラビア語からの12年がかりの翻訳『日亜対訳・注解 聖クラーン』が 三田了一 (1892-1983) によって なされました(1982年の改訂版から『聖クルアーン』)。三田了一(ハッジ・オマル)は 戦前に 満鉄調査部に就職して中国にわたり、現地でイスラームに没入してムスリムとなり、中国回教 総連合会の 主席顧問を務めたそうです。昭和20年 (1945) に帰国後は 大学の講師や 日本ムスリム協会の会長を務めました。
(左)『 日亜対訳・注解 聖クルアーン 』三田了一 訳・注解 . さらに下って平成時代には、より厳密で、詳細な訳註を付け、「訳解と正統十読誦注解」の松山洋平訳も付した『日亜対訳 クルアーン』が、カイロ大学で博士号をとったムスリムの 中田考(ハサン・コウ・ナカタ)の監修のもと、その夫人で やはりムスリムの中田香織と下村佳州紀の訳で 作品社から出版されました。決定版というべきか。一般の読書人は 岩波文庫で読む人が多いでしょうが、研究者やムスリムの多くは こちらを頼りにすることでしょう。活字を小さくしているものの、ずっしり重い机上版となりました(岩波文庫版が3冊あわせて540グラムなのに対して、その2倍以上の 1,170グラム)。それでも糸綴じの一巻本であるのは望ましく、ページのレイアウトも 編集も良い。対訳で 横書きなのも、現代的と言えます。
最後に、アラビア語の『クルアーン』を1冊紹介します。 昔、イスタンブルのトプカプ・サライを初めて訪ねた時、ある室にオスマン・トルコの名高い書家 ハーフィズ・オスマン(Hafiz Osman, 1642-98)による 17世紀の『クルアーン』の手書き写本が展示してあり、脇で そのファクシミリの完全復刻版を頒布していたので、1冊 購入しました。 932ページの全ページに金を使った豪華本です。
( 2022 /06/ 01 ) .
< 本の仕様 >
●『 古蘭 』 大川周明 訳・註、岩崎書店、昭和25年 (1950)。定価 1,200円。
●『 コーラン經 』 坂本蠡舟 訳、『世界聖典全集』第14, 15巻「回教」世界聖典全集刊行會
●『 聖香蘭經(イスラム教典)』 高橋五郎・有賀阿馬土 (あまど)共訳、昭和13年 (1938) |