ANTIQUE BOOKS on ARCHITECTURE - XXIII
ギュスターヴ・ル・ボン 著
『 インドの文明 』 
Gustave le Bon:
"Les Civilisations de l'Inde"
1887, Librairie de Firmin-Didot, Paris

神谷武夫
『 インドの文明』
ギュスターヴ・ル・ボン『インドの文明』1887年

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万能の人、ギュスターヴ・ル・ボン

19世紀にインドの文化をヨーロッパに紹介した書物の内で、最も豪華なものは何かと問われるなら、それは ギュスターヴ・ル・ボン(Gustave Le Bon, 1841-1931)の『インドの文明』 (“Les Civilisations de l’Inde”) であろうと思います。赤く染めたシャグラン革で表装された上に、豊富に金を使って華やかに装飾された表紙の、縦 29センチ、横 21センチ、そして厚さが6センチもあり、天金ばかりでなく三方の小口すべてに本金(ほんきん)がほどこされ、重さが 3.2キロもあるこの本は、豪華本中の豪華本と言えましょう。

 内部には、クロモ・リトグラフ(彩色石版画)の絵が7枚綴じこまれ、当時の先端印刷技法であったエリオ・グラヴュール(Heliogravure)の写真図版(もちろん モノクロ)と、写真をもとにした小口木版の図版とが 350図も挿入されています(その内 70点はページ大、ごく初期の未熟な写真製版ですから、小口木版の方が ずっときれいです)。図版の大部分は、ネパールを含むインド各地の古典建築なので、これは 19世紀の インド建築図集といった趣を呈しています。

 この『古書の愉しみ』第 11回の「アンコール・ワット図面集」のページに書いたように、19世紀はヨーロッパ列強がアジア、アフリカの植民地獲得競争を繰り広げていて、インドはイギリスの東インド会社がフランスに勝利して、着々とインドの植民地化を進めていました。そのイギリスがこの本を出版したのなら、ありそうなことと思えるのに、実際は敗者の側のフランスにおける出版です(パリのフィルマン・ディド書房より刊行)。一体なぜ? と疑問が湧きます。

インドの文明
『 インドの文明』を開いたところ。 多色刷りの石版画は 薄紙で保護されている。


 著者はフランス人の ギュスターヴ・ル・ボンという人ですが、建築史家というわけではありません。本が出版されたのは、今から 127年前の 1887年で、それは インドおよび世界建築史を研究して数々の著作をしたイギリスの建築史家、ジェイムズ・ファーガソン(1808-86)が没した翌年のことです。ですから、ル・ボンはインドの調査をするのに、ファーガソンや イギリスのインド政府考古調査局による出版物を大いに利用した人であって、インド建築研究に足跡を残したわけではありません。それなのに、なぜこんな豪華本を?と不思議な気がします。

 私がこの書を購入したのは、まだインターネットの時代ではなかったので、このギュスターヴ・ル・ボンというのが どんな人なのかを調べる手だてがなく、よく解りませんでした。『群衆心理』(邦訳は 櫻井成夫訳、今は講談社学術文庫)という本を書いて社会心理学の基礎を築いた ギュスターヴ・ル・ボンとは 同姓同名の別人だとばかり思っていました。

ギュスターヴ・ル・ボン
パリの ペール・ラシェーズ墓地にある ギュスターヴ・ル・ボンの墓の胸像
(From Alice Widener, "Gustave Le Bon, The Man and His Works", 1979)

 それに ル・ボンというのが、いったい本名なのだろうかと、疑ってもいました。仏語の Le Bon というのは英語では The Good ということで、昔のヨーロッパの王侯のあだ名に用いられることがありました。たとえばフランス国王、ジャン2世 善良王 Jean le Bon(1319-64)や、ブルゴーニュ公、フィリップ3世 善良公 Philippe le Bon (1396-1467) などがいます。他のあだ名としては、ロベール2世 敬虔王 Robert le Pieux や、ペドロ 1世 残酷王 Pedro el Cruel などもあります。形容詞に定冠詞をつけて、敬称や愛称にするわけです。でも、今調べてみると、ル・ボンという姓はフランスにもイギリスにもあり、ケイト・ル・ボン Cate Le Bon という、ウェールズの女性歌手や、マルセル・モイーズの弟子で アンリ・ルボン Henri Lebon という フランスのフルーティストがいるそうです。

 ギュスターヴ・ル・ボンは 1841年にフランスのシャルトルの近く、ジャン・ル・ロトルーに生まれ、90歳まで長生きをして、1931年にパリの近くのマルヌ・ラ・コキエトで没しました。トゥールのリセを卒業したあと、パリ大学に学んで医学の博士号をとりました。しかし開業医とはならず、現実の世界と過去の文明に対する興味から、ヨーロッパ、アジア、北アフリカを旅しては、考古学調査や社会調査をして知識を深め、記録をとりました。その 20年にわたる調査旅行の資金がどこから出ていたのかは不明ですが、その知見を、順に 3冊の著作にまとめ、それぞれ豪華本として出版していったのです。

 最初が 1881年(ル・ボン 40歳)の『人と社会、その起源と歴史』("L'Homme et les Sociétés, Leurs Origines et leur Histoire")。次が1884年(43歳)の『アラブ人の文明』(“La Civilisation des Arabes“) 。そして今回採りあげる、1887年(46歳)の『インドの文明』 (“Les Civilisations de l’Inde”)です。

『 インドの文明』
ギュスターヴ・ル・ボン『インドの文明』の表紙

 ところが この後(生涯に 20冊以上の本を執筆したにも関わらず)、インドやイスラームの建築や考古学の本は一冊も書かず、もっぱら社会学や心理学の本、および知的関心の赴くところ、理論物理学や進化論、果ては写真術や乗馬術の本まで執筆しています。パリ大学の教授となり、彼自身が開いたサロンでは、アンリ・ベルグソンや ポール・ヴァレリーとも親交したと言います。これらを前期の『アラブ人の文明』や『インドの文明』と重ねあわせれば、レオナルド・ダ・ヴィンチのような ルネサンス的万能人かと思わせるほどですが、しかし現代では、1895年(54歳)に出版した『群衆心理』以外は、あまり高く評価されていないようです。インド文化の研究者や愛好者でも、ル・ボンの豪華本『インドの文明』を知る人は、あまりいないことでしょう。

『インドの文明』
『インドの文明』 の クロモリトグラフ(多色石版画)

 本の扉には 著者名のあとに、公共教育省からインドの考古調査に派遣された とあります。それ以上のことは何も書かれていないので、どのような経緯で、何を目的に派遣されたのか、また出版されたのか不明です。本の献辞は、元・労働大臣、財務大臣の サディ・カルノ氏になされていることから、せいぜい次のようなことが推理されます。当初はル・ボンの個人的興味から世界各地を旅していたのが、何らかの伝手(つて)で政治家と知り合い、資金を得て 考古調査、社会調査をして、出版までこぎつけたのではないでしょうか。インドを植民地としているわけでもないフランスで、こんな豪華本が 商業出版で行われたとは 考えにくいことです。

『インドの文明』
『インドの文明』の クロモリトグラフ(多色石版画)

 本書が出版された 1887年というのは、フランス極東学院の前身である インドシナ考古調査協会が 1898年に設立されるよりも 11年前ということになり、ル・ボンの調査旅行というのは、その下準備の一環であったのかもしれません。イギリスのインド政府考古調査局は、すでに 1860年に設立されていました。フランスはそれに対抗するためにも、インドシナの植民地経営のためにも、自前の考古調査局を必要としていたことでしょう。
 もし、ル・ボンが考古調査を続けていたら、フランス極東学院の院長になっていたかもしれない、とさえ想像されます。イギリスのインド政府考古調査局の初代長官になったアレクサンダー・カニンガム(1814-93)が、もとは考古学者ではなく軍人であったことを考えれば、それもありえないことではなかったでしょう。


ギュスターヴ・ル・ボン 『インドの文明』

 ル・ボンの『インドの文明』は 740ページもある大冊ですが、ざっと見て、その三分の一が図版です。本文は、次のような構成になっています。

   第1部 大地と気候
   第2部 人種
   第3部 インドの歴史
   第4部 インド文明の変遷
   第5部 インド文明の成果
   第6部 近代のインド

『 インドの文明』
ギュスターヴ・ル・ボン『 インドの文明』の内容

 インドの文明を概説する本として、この目次立ては納得のいくところです。そして本文と図版が全巻にわたって混在していて、本文編と図版編といったふうには分離されていません。にもかかわらず、それぞれのページや節において、本文と図版が対応していません。というのも、先述のように、大半の図版はインドの歴史上の建築作品であるのに、本文における建築の記述は、第5部の中の第 2章「建築」の 70ページにすぎません。これでは 本文と図版が 対応するわけがありません。きっとル・ボンは、インドの文化としては 何よりも建築に感動したのでしょう。できる限りインド各地を訪ね歩いて写真を撮り、スケッチをし、その図版を大量に載せたかったのだと思います。そのために、図版は本文とは全く別の順序で配列し、組み込んでいます。図版目次は次のようになっているので、この本の内容は、別々の体系の本文と図版とが 無関係に重なった、二重構造になっているのです。

 ● 風景
 ● 人種
 ● 建築  I 仏教建築 
            1 仏教石窟
            2 仏教建築
            3 北西インドのギリシア・ヒンドゥ建築
      II 北部と中部インドのヒンドゥ建築
            1 北西インドの建築
            2 ラージプタナとブンデルカンドの建築
            3 グジャラート地方の建築
      III 中部インドの建築
      IV 南部インドの建築
            1 南インドの石窟
            2 南インドの塔建築
      V インド・ムスリムの建築
            1 ムガル朝以前のムスリム建築
            2 ムガル朝時代のムスリム建築
      VI インド・チベットの建築
      VII 近世のインド建築
 ● 美術  I   彫刻
      II  絵画とデッサン
 ● 工芸

 つまり、本文とは関係なく 図版だけを見ていけば、インド建築史が おおよそ たどれるというわけです。この、本文と図版の齟齬(そご)が、この書物の評価を低くしてきたのかもしれません。

『 インドの文明』
ギュスターヴ・ル・ボ 『 インドの文明』の、アーブ山の寺院の天井

 ところで、私が本書の購入時に 図版を見ていて驚いたのは、この本で大きく扱われている、アーブ山のジャイナ教寺院の写真です。321ページの向かいには ルーナ・ヴァサヒー寺院のドーム天井の写真が載せられていますが、あの天井彫刻を 最も目覚ましく飾っている 16体の「知恵の女神」像のうち、約四分の一が、ル・ボンの撮影時に未完成であったことです。ルーナ・ヴァサヒー寺院の彫刻は、寺院が建立された 13世紀に同時に彫刻されたものとばかり思っていたのですが、彫刻はそれ以後の長い年月に少しずつ充実させられていったようです。といっても、寺院が破壊されて再建されたこともあるでしょうし、ドーム屋根が(真のドームではなく、持ち出し構造のドームですから)老朽化して崩壊したこともあるかもしれません。いかなる事情で、ル・ボンの訪問時に彫刻が未完成であったのかは、記述がないので全く解りませんが、ともかく 現在我々が見ることのできるルーナ・ヴァサヒー寺院の知恵の女神像群は、少なくともその四分の一が 19世紀の彫刻作品だと解ったことでした。


ギュスターヴ・ル・ボン 『アラブ人の文明』

 さて ル・ボンは、この『インドの文明』の3年前(1884年)に、ほぼ同じような造本とヴォリュームの『アラブ人の文明』を出版しています。そのオリジナル本は 手に入いらなかったので、私のところにあるのは復刻版です。といってもファクシミリによる復刻ではなく、活字を組みなおして ぎっしりと詰めていますので、言わば「新版」というところです。図版のほうはオリジナルのものをほとんど転載しているようですが、もちろんクロモ・リトグラフの石版画は 写真印刷となっています。タイトルは「アラブ人の」となっているものの、実際はアラブ民族の文化に限らず、イランもインドも取り込んでいますので、現在の用語で言えば、『イスラームの文明』というべき書物です。イスラーム文化を全体として紹介した本としては、最初期のものです。(この「古書の愉しみ」シリーズの第 10回で採りあげた、アルベール・ガイェの『アラブ美術』と『ペルシア美術』よりも 10年以上も早い、先駆的な書物です。) オリジナルのレイアウトではありませんが、復刻版(新版)の数ページをスキャンして、参考に供しておきましょう。


『アラブ人の文明』
ギュスターヴ・ル・ボン『アラブ人の文明』復刻版(新版)の表紙と内容

( 2014/04/01 )



< 本の仕様 >
 ギュスターヴ・ル・ボン著 『 インドの文明』
 Gustave Le Bon : "LES CIVILISATIONS DE L'INDE"
   Librairie de Firmin-Didot, Paris, 1887  パリ、フィルマン・ディド書房
   29cm x 21cm x 6cm、744ページ、クロモリトグラフ(多色石版画)7枚、
   エリオグラヴュール写真図版 350 図 (ページ大 30図)。フランス語
   ネパール編や工芸編には小口木版が多い。図面は少な目で 10点ぐらい。
   版元装幀の革製本、赤く染めたシャグラン革のフル・レザー、三方金、重量:3.2kg
   見返しは厚手のマーブル紙。

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