ANTIQUE BOOKS on ARCHITECTURE - XX
アンセルム・ディミエ 著
『 シトー会の美術 』 (翻訳)
Anselme Dimier:
"L'ART CISTERCIEN"
Collectiion 'La Nuit des Temps' 16, Zodiaque
2e Edition, 1974 (France)

神谷武夫

『シトー会の美術 』
『シトー会の美術 』フランス編とヨーロッパ編

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 前回書きましたように、「1978年にこの本を購入してから、フランス語の勉強を兼ねて、一通り翻訳をしました。ところが、まだ これを推敲する前に、次第に『イスラムの建築文化』の翻訳にシフトしてしまいましたので、翻訳草稿は机の中に仕舞われたままに なってしまいました。今後も 私の本は マフィアの圧力で出版されませんので、この機会に 総論部分だけでも、「古書の愉しみ」で HP上に公開しておこう」というわけで、ここに『シトー会の美術』の、アンセルム・ディミエによる総論の翻訳を掲げることにしました。
 総論のあとに 各修道院についての各論が続きますが、それは各修道院の現状、歴史、施設各部の説明と、なかなか詳細な記述です。そのほかに、写真は掲げないが歴史的に重要な修道院を 36院選んで、時には平面図を添えながら、概説しています。また、シトー会修道院の伝統的なプランを解説するとともに、フランスにおけるシトー会修道院の分布地図を添えています。
 著者のアンセルム・ディミエは、シトー会の修道士ですが、シトー会建築の研究者として知られた人で、本書以前にもシトー会の建築に関する本を出版しています。その立場上、通常の建築史家よりもキリスト教およびシトー会について詳しく、信頼性があるのですが、逆に(特にこの総論では)、建築の解説に、宗教的説明が入りすぎるきらいもあります。
 本からの写真は前回多く載せましたので、今回は 私の撮影した、シトー会修道院の写真を挿入します。なお、訳文中の[ ]の言葉は、訳者による付加です。
 ところで、この『シトー会の美術』が出版される7年前(ということは、リュシアン・エルヴェによるル・トロネ修道院の写真集の出版の前年の)1955年に、小さな修道院を舞台にしたイタリア映画『汚れなき悪戯 』(原題は「パンと葡萄酒のマルセリーノ」)が制作されました。これはシトー会ではなく、フランシスコ会の修道院ですが、修道院とはどういうものだろうかと思った人には お勧めの映画です。まだ見たことのない人は DVDで、ぜひ ご覧ください。

( 2013/ 12/ 01 )


セナンク
シトー会のセナンク修道院


シトー会の美術

アンセルム・ディミエ
神谷武夫 訳

 シトー会の美術について語るためには、シトーの修道士たちがその修道院建設における工匠として、たちまちにして到達した円熟を問題にすることが、とりわけ重要であるが、だからといって建築以外の部門において芸術表現がなされなかった というわけではない。
 実際、この修道会の誕生後まもない頃からずっと、シトー会の写本室は この分野の傑作にも遜色なく、今なおディジョンの図書館で嘆賞されるような素晴らしい彩飾写本を生んだ。なかでも素晴らしいのは、聖スティーヴン[ステファヌス]・ファーディングのものと言われる4巻から成る大部の聖書で、彼は修道士たちに 聖書本文の正しい翻訳を与えるべく、それを制作させたのである(この写本には、近年 シャルル・ウルセルがカラーの見事な図版を豊富に添えた 重要な研究書を捧げた)。トロワの図書館には、聖ベルナールの存命中に 早くもクレルヴォーで制作された同種の写本が、聖アウグスティヌスの6巻本とともに保存されている。

セナンク
シトー会のポンティニー修道院

 しかしながら 1150年という、ごく早い時期に修道会総会の規約によって、以後の写本は 章頭の頭文字の絵(それも単色のみ)以外は一切の装飾を禁じられてしまったので、この優れた芸術的発展は たちまち阻まれる ことになるのではあるが、同じころ、同種の規則が 彩色ステンドグラスをも禁じている。
 それゆえ シトー会の写本家たちは、いみじくも ジャン・ポルシェが言っているように、

「正格の綴り字の配列を 気紛れな手管で光らせたり、目立たせたり、省略したりすることによってではなく、羊皮紙の特性や文字の形に対する配慮、比例関係や頁の割り付け方の探究のうちに、彼らの芸術を表現する道を見出していくのである。ステンドグラスの工匠たちは、色彩を用いずに、鉛の線のパターンだけで 花々や組み紐紋様やアラベスクを描いて、驚くべき効果をあげることに成功する。残念ながら それらの作品は、フランス国内では ポンティニーやオバジーヌ、ボンリューの修道院におけるもの等、わずかな実例しか残されていないが。

 彫刻や絵画となると、シトー会の綱紀粛正後まもなく 徹底的に締め出されたために、その実例を見出すことは 殆ど できないのである。
 このようにして、シトー会の工房から生まれた細密画、ステンドグラス、彫刻、そして絵画などで 今なお残る若干の実例は、12世紀から 13世紀にかけて 白衣の修道士たちによってなされた修道院建築の素晴らしい開花とは対照的に、ごくわずかしか存在しない。修道院建築の方は、ポルトガルからポーランド、ノルウェーからシチリア島にまで至る ヨーロッパ中に、数百もの 輝かしい実例を なお見ることができる。
 そうしたわけで、シトー会の美術について語る時には、主として 建築、修道会の工匠たちが采配を振るった建築、が焦点となる。それは、彼らが独特の新しい技法を開発したからではなく、また格別にシトー会的な建築を創造したからというわけでもなく、むしろ 彼らの綱紀粛正が基づいた基本原則を、全体構想から建築技術に至るまで適用しながら、わずかの間に その施設、とりわけ聖堂建築に 簡素で飾り気のない性格を与えることに成功したからである。その性格は、マッスの見事な釣り合いと、比類のない清澄な線とを獲得して 高度な芸術に到達し、目覚ましい成功を収めたのである。

オバジーヌ
オバジーヌ修道院の ステンドグラス

 不思議なことには、初期のシトー会士によって編まれた どの規則も、建築について規定してはいない。単に彼らは、好んで口にした「できる限りの正確さをもって」、彼らが そもそもの純粋、誠実に守ることを望んだ 聖ベネディクトゥス会則を、その精神においてばかりでなく その字句そのものに基づきながら、修道生活のうえで厳密に必要なものだけで満足すべく、無用なものをすべて退け、感覚の満足を放棄し、貧しきキリストのように 清貧に生きることを願ったのであった。そしてそれは、あらゆる領域、衣類や食物に関しても、そうであった。手仕事を再び尊重したのも、同じ理由からである。さらに、それらの規則は 金や銀、高価な飾り、形象的な装飾、聖人像、一切の彫刻や絵画などを、彼らが誓った清貧に相反するものとして、また神のもとでの魂の昇天を妨げるものとして、聖堂から追放したのである。それは、彼らの徹底的な原則の 当然の帰結なのであった。

 しかしながら、すべての無用なものを一掃することができるとしても、まず居場所が必要であり、それを建てねばならなかった。そして 木造の小屋で我慢しない限り、石造の恒久的な建物は、どれほど飾り気なく 簡素で質素であろうと、建築家[修道士]は、語るべきものを持ち、そこには必然的に、何かしら芸術が入り込んでくる。そこでまたシトー会士たちは、無飾性を、とりわけ聖堂建築において、極端にまで推し進めることになる。レスカル・デューや ル・トロネ、フォントネー、クレルモン、そしてメルレーの聖堂は、その最も顕著な実例である。
 聖ベネディクトゥスの会則もまた、建築については一言も触れていない。それを暗示している唯一の節は、単に修道院が生活に必要な一切を 修域の中に見出せるように建てられるべきことを規定しているに過ぎず、それは 修道士の外出を避けるためだったのである。また長老[聖ベルナール]の生涯をたどると、クレルヴォー修道院の様々な施設の配置を決め、設計したのは、[規則からと言うよりは]彼自身であった ということが解る。
 それでもシトー会の会則には、聖堂の無飾性について シトー会士たちの注意を惹かずには いなかったであろう一節がある。礼拝室に関係のある章は、次のように始まる。

 「礼拝室は その名に相応しいものであるべきで、それとは無縁のことをしてはならならず、容れてはならない。」

ここには聖アウグスティヌスの会則の、次のような章句の借用かと思わせるものがある。

 「礼拝室においては、なんびとも、そこで定められ、またその名が由来する以外のことを為してはならない。」

これは直ちに、[エルサレムの]ソロモンの神殿から商売人たちを追い払うべく、イエス・キリストが預言者イザヤの言葉を引いて 次のように言ったことを想起させよう。

 「わが家(いえ)は、祈りの家である。」

つまり これは シトー会士たちが会則の本文に基づいて、その礼拝室から 祈りや典礼に直接係わりのない一切のものの追放を決心した ということである。

セナンク
シトー会のカザマリ修道院

 修道院とは、修道士が 精神の芸術に没頭する 工房である、と聖ベネディクトゥスは別の個所で述べている。そこでは修道院は、一所定住の誓いと、修域内の規則によって定められた、他界に至るまでの修道士の一生が流れゆく枠組みとしてばかりでなく、魂の浄化としての活動に 必要不可欠の場所としても 現れるのである。
 聖ベネディクトゥスが 共住修道士をさして用いた表現は、私の知る限り どの注釈者もその重要さを強調していないが、この点に引き寄せて見なければならない。それは「ゲネス・モナステリアレ」で、修道士に関しての 最も含蓄深い言葉であるが、これはフランス語に翻訳することは不可能である。「修道院内に生きる者」と言ったのでは、すべての含蓄を表現したことにはならない。それは もっと多くのことを意味している。すなわち、共住修道士は その修道院に属しているというばかりでなく、彼が終生(語の最も深い意味で)「住む」のはそこであるということ、また それは できるだけ外出を避けて種々の「善き仕事のやり方」に実際に習熟し、またその活動に打ち込む「工房」でもあるということ、さらに、他界に至るまで彼が 倦まず精進するのも そこなのだ、ということを意味している。

 聖ベネディクトゥスが規定した修道士とは、その修道院と切り離せない。言わば、修道院は彼と一体化し、その視野の全体を構成するのであって、建物の配置が 彼の在り方をことごとく規定しているのである。それだから、修道院 ―― それも石造の修道院、ということは建築芸術 ―― は、修道士の生活と人格形成の上に 強い刻印を残さずにはいない。ことほどさように、修道院なしの修道士を考えることはできない、そここそが 彼の生活環境であり、彼の 生そのものなのだから。
 従ってシトー会士たちは、規則に適った建物が完全に建てられないうちは 修道院の設立はできないし、創設者の最初のグループは、正規の生活および共同体のすべての勤めが 直ちに始められるように、修院長と 12名の修道士を数えねばならない、と定められているのである。またその故にこそ、修道院は十分に広く、風通しよく、正しく東に向けられて、注意深く建立されるのだと言えよう。とりわけシトー会の建築は、祈りと黙想に 最もふさわしい環境を創るべく、単純・簡素・無飾性によって 隈なく秩序づけられたのである。

 さて修道士が修道院から離れると、もともと外に拡がる筈のない 彼の性向に反した状態に置かれることになる。したがって長期間 修道院の外にいる修道士は、水の外の魚のようなものだと、まことに適切に 古人は言ったものである。
 修道院が、修道士の精神の芸術の修業をする工房であるとするなら、とりわけ礼拝室は、最も気高く清らかな形式において この修業に捧げられた場所である。シトー会士たちは その聖堂を「祈りの工房」と呼びうるものにし、そこでは かくも繊細なこの芸術の修業にあたって、決して 何ものも彼らを煩わせる懼れのないようにしたい と願ったのであり、それこそが この徹底的な無飾性の理由なのである。
 初期のシトー会士たちの規則や会則は、明快に それを語っていよう。すなわち、彫刻や絵画は しばしば修道士たちの放心のもととなり、それらを眺める者を 敬虔な黙想から引き離し、また宗教的謹厳さとは相容れないが故に 廃棄すべきなのだと。そうした無用な贅沢に費やされた金銭を、貧者の救済に当てるほうが有益であることは 言うまでもない。

サンテス・クレウス
シトー会のサンテス・クレウス修道院

 こうしたことすべては、聖ベルナールがその友人で ランスの聖チエリー修道院の院長であったギヨームに宛てて 1125年頃に書いた、有名な『弁明』(アポロジー)の中に、この聖人が著作の中に取り入れることを心得ていた あらゆる雄弁さと苛烈さとを駆使して、いっそう見事に述べている。クリュニーに矛先を向けたこの文書の中でも とりわけ、贅を尽くした建物や、聖堂装飾に惜しげもなく費やされた富が問題にされた主要な数節が、ここで想起されずにはいない。

 高位聖職者が巡行の折に、一群の従者ことごとくを随従させるような奢侈について語ったあとで

 「諸聖堂の大いなる高さや 法外な奥行き、不必要な広さ、贅を尽くした装飾や 技巧的な絵画等が 祈る者の視線をとらえ、彼らの敬虔さを妨げることについては、私は触れまい」

と彼は言う。それら全てが 素朴な信者たちの熱情を高めるのに役立つ ということを認めるのに、聖ベルナールは吝(やぶさ)かでないが、続けてこうも言う。

 「けれども 我々は、一切を厭離してキリトに仕えるために 世の麗しく豪奢なものは全てこれを棄て去り、キリストに近づくべく 視覚、嗅覚、聴覚、味覚、触覚を魅するものや、あらゆる感覚的な歓びを 塵芥(ちりあくた)のように見なした我々が、一体そうしたもの全てによって 我々の天職を際立たせようとでも望むのか、と私は問いたい。」

さらに先のほうでは、

 「今や人は、聖堂内には茨の冠ではなく、まことの宝冠を吊り下げていて、それらは宝玉で覆われ、灯火を備えているが、そこに鏤(ちりば)められた宝石ほどには輝かない。そしてまた 単なる枝付き燭台の代りには、おびただしい青銅を用いて丹念に彫刻され、宝石類に光り輝く樹木のごとき燭台が、屹立して灯火を担っているのが 見られよう(ここで問題にしているのは、フランスの聖レミ聖堂における、内陣への入口を飾る 枝付き燭台のことである)。こうしたもの一切によって、人は何を得ようというのか? 贖罪者の悔恨か、それとも感嘆のまなざしか? おお、空しき虚飾よ、無益というより、なお愚劣である! 教会はそのモニュメントを黄金で飾り立てながら、その息子たちを 裸のまま置き去りにするのである。」

 そして結論として、聖人はこう記している。

 「要するに、それは信者にとって、修道士にとって、また精神に生きる者にとって、いったい何の役に立つと言うのか?」

 このように飾り立てられたのは、聖堂ばかりではない。

 「「中庭をめぐる」回廊においても、読書に宛てられるべき兄弟たちの眼に、あの奇形なる美、あるいは美なる奇形とも言うべき異様な怪物たちは 何ごとか? それらの不浄な猿や 荒々しい獅子、怪異なケンタウロス、まだらの虎、戦う兵士たち等々は、いったい何をしようと言うのか。ここには一頭多身の怪物が見られ、かしこには多頭一身の怪獣がひそんでいる。それほどに多様な者たちがいるあまり、人は 書物よりも石の上を、より熱心に読むこととなり、神の戒めについて熟慮するよりも、これら全てを感嘆することに 終日を費やしてしまうのである。何たることか! 人が こうした愚かさを恥じないまでも、少なくとも それらがもたらす費(つい)えを 惜しむべきである。」

 聖ベルナールが ここで語っているのは、純一の修道生活の範として、清貧を守り 奢侈を排すべき修道士についてなのだ、ということに想いを致さねばならないが、魂の救済を任とする修院長についても 同様である。経験が彼に、神の御業への瞑想と祈りに捧げられるべき 修道士たちの生活において、芸術作品が引き起こしうる あらゆる放心を顕わにしたのである。
 このことは 故エドガール・ブリュヌが『中世美学の研究』の中で 聖ベルナールを論じた個所で、的確に描いているところである。

 「建築的形態や 生活の要求から生まれる形態は否定しないが、しかし 厳格に必要なものしか許さない芸術を、聖ベルナールは 心から求めたのである。それは 飾り気なく単純で、必要以上の大きさをとることなく、またそれは 禁欲的かつ内面的で、非形象・統合・謙譲の精神生活を反映していて、過度な情動や 想像力の発散を引き起こす一切に対して 不寛容な芸術である。」

ヌワールラック
シトー会のポブレト修道院

 ところで、このように考えていたのは、クレルヴォーの修院長のみだったわけでは 決してない。彼の同時代者で、イングランドのヨーク司教区にある リーヴォーのシトー会修道院の院長であった 福者 アイルレッドもまた 万聖節での説教において、そうした外面的な装飾全体が 祈りの中にもたらさざるを得ない放心に触れて、次のように言っている。

 「彼らは、こうした外面的な装飾や美を 放恣と虚栄でもって追い求めるが故に、この祭を理に適った あるべき姿で祝うことができない。これら皮相な者たちは、あまりに多くの歌唱や装飾、光彩、その他の美に 心を奪われるあまり、彼らの眼や耳の感覚器官を刺激するもの以外は 殆ど考えることも できなくなるだろう。」

 それは 修道士たちが万聖節を祝うべき本来の仕方からは 程遠い。敬虔な修院長はさらに続けて、

 「我々はというに、眼には見えなくとも 多くの者が頼りにしているものを知っている。それは 我々の瞑想の対象であり、我々の歓びの源である 天上の聖人たちが嘉納する、まことの美しさである。それはまた 聖人たちが信義と聖徳のうちに所有する 精神の飾りである。さらにまた 彼らが倦まずに神の栄光を讃える 頌歌と賛歌であり、神の顔(かんばせ)に見出される光明である。さあ、この地上的で束の間の喜びに我々の精神がとどまらぬよう、むしろ 聖人たちの栄光と勝利に想いを馳せながら、永遠の精神の歓喜に浴するべく、この祭を祝おうではないか。」

 修練士のために編まれた『慈愛の鏡』と題する論文において この修院長[アイルレッド]は、視覚的な興味や欲性について触れる折に 再びこの主題に立ち返る。この論者は、人の眼がさまざまな形態や、鮮やかで好ましい色彩、世人のまなざしを捉える絵や彫刻その他の作品に 快を見出すことを示したあとで、聖アウグスティヌスが『告白』において こうした虚飾の中に満足を求める者たちについて語った一節を、原文のまま引用している。

 「外においては 彼らは自分が作る物に憑かれながら、内においては 彼らを造りしもの[神]をなおざりにし、彼ら自身がそう造られた姿を 破壊するのである。」

 つまり、この世に執着する者は 自分らの手になる つまらぬ制作物に拘泥しながら、彼ら自身の中の より深くに住む造物主のことは忘却し、そのため 造物主を認め愛すべき理性ある被造物としての 自らの役割に背いて、あらぬ方に拡散してしまう、ということである。
 こうした外面的な装飾一切は、精神に生きる者にとって 何ら益にならないばかりか、その祈りや黙想の 妨げにしかなるまい。福者アイルレッドは 続けて言う、

 「修道院の回廊にいる、これら 鶴や兎、鹿や羊、鵲(かささぎ)や鴉(からす)は、いったい何事か? それらは 聖アントニウスや聖マカリオスへの責め具ではなく、むしろ女子供の娯楽である。これら全ては 修道院の清貧に似つかわしくないばかりか、好奇の目を楽しませることにしか 役立たない。」

 けれども人々は こうした装飾にあまりに慣れ親しんでいるので、装飾のないことは、むしろ人々を驚かせ、がっかりさせるかもしれない。

 「もしある人々が あらゆる視覚的な楽しみよりも イエス・キリストの清貧を選び、必要以上には何も望まず、また 虚しくも無用に大きな堂宇の代りに、修道士のための小さな建物を望んだのであれば、粗い石で建てられた礼拝堂に入った時に 彫刻も絵画も、また大理石の床の上の絨毯も、緋色の布で覆われた壁も、はたまた歴史や戦闘場面はおろか 聖書の物語で飾られた壁面すらも見出すことなく、照明の輝きにも金属祭具の華麗さにも まばゆい思いをすることなく、逆に、彼がそこに見出すものは 悉く貧相なので、あたかも楽園から追放されて 暗い恐怖の牢獄に投げ込まれたかのようだ と嘆くならば、彼の魂の落胆は いったいどこからやって来るというのだろうか、何ゆえの苦痛なのか、と私は問いたい。
 もし彼が救い主キリストから、心清く謙虚であるべきことを学んだのなら、そして聖パウロが言われたように、単に見えるものを見ず、見えざるものをこそ瞑想することを学んだのなら(なぜといって、見えるものは束の間であり、見えざるものこそが永遠なのであるから)、私は敢えて言おう、もし彼がその魂を、優しき主があらゆる内面的な歓びを与えてくれる 神の慈愛の庇護下に置いたのであるなら、彼はそれら一切の 外面的で哀れむべき美に執着し続ける などということがありえようか、と問わねばならない。」

 アイルレッドによる これら二つの文書は、聖ベルナールのものと並んで、シトー会の建築的無飾性の 深い理由を説明していよう。感覚のみに訴える装飾はすべて、精神に生きる者にとって無益であるばかりでなく、祈りや黙想の妨げにしかならない。加えて 清貧の修道院は、貧者の救済に用いれば有益であろう大金を 無用の装飾に費やすことは許されないのである。

ポブレト
シトー会のポブレト修道院

 ところで こうした全ては、シトー会にのみ見られたわけではない。11世紀末葉の修道院改革者たち、その幾たりかを列挙するなら、グランモン会のエチエンヌ、カルトジオ会のブルーノ、アフリガン修道院のジェラール、フォンゴンボー修道院のピエール、チロン修道院のベルナール、モルタンの修道院のヴィタール等は皆、各々の修道院建築が 気高い簡素さへと立ち帰るべきだと主張した。かのアベラールも、エロイーズに宛てた第8の書簡(それは 彼がパラクレーの尼僧たちのために定めた会則に他ならないが)の中で、そうした簡素さを勧告している。彼は壮麗な建物を望まず、彫刻にせよ絵画にせよ 無用なものは一切求めず、ただ必要とされるもののみを建て、そして祭壇の上には 簡素な木の十字架を、もし望むならば その上には救い主の像を描くこと のみを許したのである。

 意外なことには、クリュニー会によって[聖ベネディクトゥスの]会則に加えられた手心を正当化すべく、クリュニーの修院長・尊者ピエール[ペトルス・ヴェネラビリス]が シトー会の聖ベルナールに宛てた手紙においては、このクレルヴォーの修院長[聖ベルナール]が異を唱えた 壮麗な建築や華美な装飾を、ひと言も擁護してはいない。こうした贅美は ことごとく神の栄光に捧げられていたのだと、後にサン・ドニ修道院のシュジェールが その自伝的『弁明』において せざるを得なかったような主張は、していないのである。
 この点について クリュニーの修院長[尊者ピエール]は 多分、聖ベルナールをほぼ正しいと 認めていたのであろう。その当時から ブルゴーニュ地方におけるクリュニー会修道院の多くが、簡素さに向けての顕著な傾斜を 一段と鮮明にし始め、その簡素さが 時としてシトー会の諸聖堂のような 無飾性にまで達しているのを見れば、なおのこと そう思わざるを得ない。

 後には 托鉢修道会[ドミニコ会や フランシスコ会など]が この範に倣い、さらに新生カルメル会は より高い清貧に向けて 運動を強化した。「カルメル会の修道女」聖テレジアと 十字架の聖ヨハネは、修道的清貧とは相容れないものとして 壮麗な建物と、魂を放心させるばかりか 神へ向かうことを妨げるような無用の装飾とを追放すべく、熾烈な文書を著すのだった。

 聖ベルナールと初期シトー会士たちは、あらゆる改革者たちと同様、生身の人間的価値に対しては超然とし、H.I.マルー[アンリ・ダヴァンソン]が いみじくも述べたように、

「永遠なるものへの渇望という 固定観念に捉えられ、ひたすらに神と救済とを求める純真さを保つ、妥協せぬキリスト教徒の一派をなしているのである。」

 プロテスタントの宗教改革もまた、この厳しい禁欲主義の運動に 参加しないではいなかったが、必ずしも それらを刷新したわけではない。ブイエ神父は そのことを巧みに述べている。

 「カルヴァンとルターが、その最も奥深い精神的渇望に対する確証を 聖ベルナールの書き物の中に求めたのは、確かに 間違っていなかった。シトー会の 禁欲精神による一徹な偶像破壊運動が準拠したのは、この唯一神、すなわち 人間やこの世界に由来する いかなる方法と取り違えられようもなく、至高の恩寵の並びない徳性によって、いかなる被造物とも取り違えられるべくもない 唯一者だったからである。」

さらに続けて、彼は述べる、

 「こうしてシトーは、禁欲的で神秘的なカトリシズムにおける、内面的に最も奥深く 根源的なものを表現したのである。 ・・・・・・ 感覚に訴えるもの一切、視線を捉えるもの悉くを(カルヴァン派の信仰から)容赦なく追放し、人間的な一切でさえも全廃したのは、神の唯一存在(その栄光のもとに 人間と世界に属する一切に対する絶対的な超越者)を再認識させるためであった、ということこそ 理解すべきなのである。」

 シトー会の無飾性の奥深い理由を、これ以上 みごとに説明することはできまい。

 興味深いことには、故トレス・バルバスの秀逸な論文が 近年明らかにしたように、シトー会の初期の聖堂が 各地に姿を現し始めるのと時を同じくして、12世紀初頭の西方イスラーム圏においても、こうした(再び ブイエ神父の言葉を借りるなら)「剥奪的な無飾性」が 見られるのである。
 ムワッヒド運動の創始者である イブン・トゥーマルトは、聖ベルナールとまったく同じように(この二人の改革者のあいだに 何ら接触があったわけでもないのに)、草創期のイスラーム教(すなわち徹底した厳格さ)に回帰すべきことを唱えた。彼は内面的な瞑想と精神の完徳とに 第一義の価値を与えるべく、人間生活における あらゆる無用物を排斥した。慣習を打破する この改革者は、厳しく一徹な教義を守り、奢侈に敵対して、大いなる厳格さの生涯を送った。彼は 行く先々で節欲を勧め、俗事への蔑視を語り、果ては 音楽を奏でる楽器や 葡萄酒の瓶を 打ち壊してまわったのである。

 この厳しい禁欲主義は シトー会の修道院と同じく、芸術の分野、とりわけ建築において 反響を呼んだ。イブン・トゥーマルトは、[スペインの]アンダルシア地方から [アフリカの]マグリブ地方にまで広まった ムラービト朝のモスクにおいて、その内部を飾り立てる過剰な装飾を、信仰からの逸脱と見なしたのである。中でも 壁や天井や照明具の上の 金銀をちりばめた仕上げは、礼拝のあいだ信者を放心させがちなものとして弾劾した。こうして ムワッヒド朝の厳格さは シトー会の芸術運動と並行しながら、簡素にして明澄、優雅であるとともに雄勁な様式を 生み出したのである。

グラデフェス
シトー会のグラデフェス修道院

 周知のように シトー会士たちは、彼らの建築を特徴づけていた 飾り気のない芸術形式を、時の流れとともに 次第に見捨てていった。18世紀には、殊に豊かな修道院が それぞれ大規模な建設計画を実現に移すのだが、その殆どは 工事が緒につくや、大革命によって頓挫させられてしまった。このために、ライン河を越えてダニューブ河のほとりに至る シトー会を席巻したバロック芸術は、フランスのシトー会修道院においては 殆ど痕跡を残さなかった。
 かろうじて一院が、新しい様式のシトー会修道院として 見出されるに過ぎない。それはポンチュー高原にある ヴァルワール修道院で、その建設は 1741年に始まり、1756年に竣工を見た。その装飾は、ウィーン出身のオーストリアの彫刻家で、決闘で相手を殺したためにフランスに亡命してきた プファッフェンホーヘン(通称プファッフ)、それにヴィヴァレー地方の出身のゆえに その名を通称とする鉄工芸家 ヴェイランとに委ねられた。しかし このヴァルワール修道院でさえ、同時代のドイツやオーストリアで再建 あるいは改修美化された大部分のシトー会修道院に見られるような、満艦飾の装飾からは 程遠いと言える。

 現代では、むしろ単純さの方が 好まれるようになった。そして 本来のシトー会の美術の無飾性まで立ち戻らないとしても、今や 大方のキリスト教徒が希求する道筋は、この方向にある。J.A.ユングマンは、典礼についての近著で そのことを語っている。

 「現代の建築家は、もはやバロック時代における先達のように建てることは、できもしなければ 望みもしない。その理由は、単なる時代の気紛れだろうか? 典礼の本質的な要素を考慮しての この回帰も、外的な状況の結果に過ぎないのだろうか? 今では私たちは、外部の形態が華美になる程、内部の源泉を生あらしめるのが困難になる ということに気づいている。常住坐臥、私たちは内面に向けて 精神を集中すべきである」。

 これは、信者のための聖堂から あらゆる装飾、あらゆる聖像を取り除け、ということではない。極端は、避けるべきである。教皇ピウス 12世は、その先人で 1958年に祝われる筈だった 教皇ベネディクトゥス 14世の 200年祭のために用意した貴重な教書において、近年台頭している傾向、教会堂から聖人の像が姿を消し、彼らへの崇敬の念が薄れゆくような傾向、に対しては警戒するよう、信者たちに呼びかけた。そして、こうした「冷ややかな偶像破壊運動」を、カトリックの伝統に 対立するものとして排斥したのである。
 歴史家の任務は、祈りと黙想を促進する上で、いかなる芸術様式が最適なのか ということを決定することではあるまい。ここでは シトー会の美術の奥深い意味合いが、よりよく理解されるよう努めて良しとすべきなのである。

 終わりにあたって、議論の核心を端的に表しているように思える一文を、ここに引用しようと思う。それは 聖ベルナールの後継者にとって大切な 無飾性に対する、論敵からの引用である。クリュニー会の芸術、その浮彫りや柱頭彫刻、飾られた半円壁(タンパン)、金細工、青銅工芸、その他 シトー会の簡素さに対立する あらゆる種類の豊かさを熱狂的に賛美する エミール・マールは、次のように記して その著[『ヨーロッパのキリスト教美術』]を 結んでいる。

 「断然、クリュニー会士たちに理があった。聖ベルナールのごとく清貧であるためには、類まれな内面の豊かさが必要だったが、凡俗なる信徒もまた 救済されねばならなかったのである。」

 なるほど! しかしながら、クレルヴォーの修院長[聖ベルナール]は、その修道士たちのためにしか 語ってはいない。そして 彼らと分かち合うことを願った、その「類まれな内面の豊かさ」を 身につけることができたのは、まさにこの 外的な清貧を通じてではなかっただろうか?
 以下のページにおいては、フランスのシトー会修道院のうち、ことに保存がよく、その聖堂が無傷ないし それに近いものの中から、この飾り気なく抑制のきいた芸術について 詳細な説明をするべく、その最も美しく純粋な範例と認められるものを選んだ。
 それに加えて、やや重要度の劣る聖堂、あるいは 多少毀損ないし荒廃したもの、さらに その聖堂がシトー会の建築史上に重要な位置を占めている場合には、すっかり消え去ってしまったものでさえも、基礎の発掘によってであれ 古文書によってであれ、プランが知られている聖堂に関して、一通りの略述を添えた。
 こうして読者は、シトー会の歴史上、フランスにおける最も良き時代に、その美術がどのようであったかを、理解することができるであろう。



 < 本の仕様 >
 "L'ART CISTERCIEN" by Anselme Dimier ゾディアック叢書 16. 『シトー会の美術』
  Zodiaque, éditée a l'Abbaye Sainte-Marie de la Pierre-qui-Vire, Yonne
  photographié par P. Belzeaux, G. Franceschi et Zodiaque.
  France (La Nuit des Temps 16.) 2e Edition, 1974, (1re Edition 1962, 3e 1982)
   サン・レジェ・ヴォバン(ヨンヌ県)、サント・マリ・ド・ラ・ピエール・キ・ヴィール修道院編
   アンセルム・ディミエ著(「シトー会の彩色写本」の章のみ ジャン・ポルシェ著)
   フランス編 1984年、22cm x 17cm x 3.5cm、379ページ (map 4pp., plan 26pp.)
    写真は、カラー 6ページと モノクロ 152ページ。
   白の布製本、カラー写真のジャケットつき。重量:2冊で 1.7kg。フランス語



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