● 書評
(デルファイ研究所『at』誌 1994年9月号)

『空間の生と死』 アジャンターとエローラ
竹澤秀一著「建築巡礼」27.
菊判、119ページ、2,300円
1994年6月発行、丸善



インドの石窟寺院は、 あなたの訪れを待っている

神谷武夫

 近年、わが国でもアジアの建築文化に対する関心が急速に高まってきたのは、喜ばしいことである。なかでも東南アジアの建築は大いに人気を博しているが、その源流たるインド建築まで踏み込む人は、まだ少数派である。そんな時に、インドの石窟寺院に関する手頃な本が出版された。長く続く『建築巡礼』シリーズの1冊であるが、これが初めてのインド建築の巻であるというのは、遅きに失したと言うべきかもしれない。

 建築家に限らず、日本人がインドに旅すれば驚くことばかりだが、なかでも岩山を掘って彫刻した石窟寺院には、もっとも強烈な印象を与えられる。木造文化の民である我々には、ただでさえ石造建築というのが驚異的であるのに、まして石を積むのでなく、岩山を掘ったり削ったりして「建物」を作り続けたという行為は、にわかには信じがたい気もするわけだが、彼の地にはそうして作られた「石窟寺院」が、何と 1,200も現存しているのである。

 といっても、岩山を掘って住居や礼拝堂にするという営為が、インドの専売特許であったわけではない。古代のエジプトやペルシャの墳墓、中世のトルコやエチオピアの教会堂、さらにはインドの影響のもとに作られた中国の石窟寺院など、世界各地にその実例を見ることができる。けれども、そのほとんどがいかにも「洞窟」的であるなかにあって、それをインドほどに高度な建築的形式にまで高めた地域は、ほかにはない。石窟の内部には整然と柱が並び、梁が架け渡され(たように彫られ)、あるいはヴォールト天井で空間が覆われ、ホールの周囲には個室が並ぶ。その各部がみごとな彫刻で荘厳されているさまは、独立した石積みの建物に何らひけをとらない形式性をもっている。そうしたインドの石窟寺院の優れて建築的な特質を明らかにすべく、建築家の武澤秀一さんはデカン高原に散在する主な窟院を訪ねてまわり、本書を著した。 数ある石窟のなかでもとりわけ圧巻なのは、岩山を上から掘り下げて、高さ32メートルにも及ぶ巨大な寺院全体を丸彫りとした、エローラーのカイラーサ寺院であろう。それはもはや洞窟ではないので、「石彫寺院」と私は呼んでいるが、本書でもそれをハイライトとすべく、初期の窟院からカイラーサへの道のりを、ていねいにたどっていく。いまだインドを訪れたことのない人にとって本書は、底知れぬほどに奥深いインドの建築文化への、楽しくも興味深い入り口となるだろう。

 本書の写真が十分に石窟寺院の魅力を伝えているとは言いがたいのは残念だが、その代わりに多くの図面が添えられている。建築家諸兄はこれらの図面を手にしながら、ぜひとも現地の石窟や石彫寺院の数々を実際に体験して、その驚きと感動を自らの設計に生かしてほしいものだと思う。そのむかし作曲家の芥川也寸志さんが、西洋の「プラスの文明」とは全く異なった「マイナスの文明」に驚嘆して、名高い『エローラ交響曲』を作曲したように。

(1994年8月)



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