鹿島出版会『 SD 』誌 1986年7月号

定番記事「 NICE SPASE 」に、ラーナクプルのアーディナータ寺院を
写真と文で載せ、元 広島大学教授で インド哲学、とりわけ
ジャイナ教論理学を専門とする 宇野惇教授にも 参加してもらいました。

  

鹿島出版会 『 SD 』誌 1986年 7月号 65-66ページ
Adinatha Temple, 1439, Ranakpur, India


 

THE SWAN SONG of INDIAN ARCHITECTURE

白鳥の歌

ラーナクプルの アーディナータ寺院

神谷武夫(かみや たけお、建築家)

 水の都、ウダイプルを朝の8時に発つと、バスは野を越え、険阻な道を4時間半たどって、昼過ぎにラーナクプルに着く。古い書物では ラーンプル (Rânpur) とも書かれている このラージャスターンの山奥の地は、町でもなければ村でもない。川沿いの山道から谷あいに入った所に 忽然とジャイナ教の大寺院が聳え、近くに巡礼宿(ダルマシャーラ)を伴った 修道所があるばかりである。寺院の創建は 1439年、建築家の名は デパーカと、入口脇の碑文が伝えている。人里離れて 孤立して建っているためか、外部に対しては閉鎖的で(内部の一隅には 秘密の地下室があり、異教徒の略奪を恐れて 聖像や経文を隠していたらしい)、全体が堅固な壁で囲われている。おまけに 傾斜地に建っているので、正面にそそり立つ基壇は まるで城塞のようである。
 中央階段の上には3層構成のエントランス・ホールがあり、狭く暗い階段を なおも上って行くと、不意に 光に満ちた拝殿(マンダパ)の大空間が現れ、その劇的効果は 圧倒的であった。林立する柱の奥には 僧侶が額づく本殿(ガルバグリハ)が望まれ、見上げれば3層の吹き抜けの上に 繊細極まりなく彫刻された石のドームが架かり、各層の間から差し込む光は 柱や梁の彫刻パターンを浮かび上がらせる。しかも 一切が白い石で作られているので、その清浄感と合わせて「この世のものとも思われぬ」幻想的な眺めを 現前させてくれるのである。

 この建築的感動は この部分だけで終わるのではない。約60m×62m(1,120坪)の平面をもつ この寺院は、2本として同じ彫 大ドームや小ドームが あるいは高く あるいは低く架け渡され、光と影の織りなす夢幻的光景は 次々と新しいヴィスタを生みながら 無限に続いて行くのである。
 屋上に登れば 青空と周囲の山々を背景に、最も高い本殿の塔(シカラ)をはじめとして 100を超える小塔が林立し、塔頂に立つ鉄柱からは 紅白の幟(のぼり)が はためいている。あたりの物音は 鳥の声と 葉むらのそよぎばかりだが、各々の鉄柱からは 小さな鐘が10個ずつ吊り下げられているので、風が吹くと 千を超える鐘の音が 波のように神秘的な音楽を奏でわたる。音と建築との これ程の見事な調和は 他に体験したことが無い。
 彫刻の密度は 恐るべきもので、寺院の北隅にある 未完の小ドームを見ると、こうした繊細な彫刻は 寺院全体が 石のマッスとして架構された後、順次 彫り進められたのだ ということが わかる。よく見れば 柱や梁にも まだまだ彫刻の余地はあるし、未完のものもあり、ここには 完成ということが無いのかもしれない。

 初めて この寺院を訪れた時、その<荘重なる豊穣さ>に しばらく 呆然自失の体であったが、いくら写真を撮っても撮りきれない ヴィスタを追いかけて 内部を歩き回るにつれ、私の心に湧き出てくるのは バッハの晩年の大作『フーガの技法』であった。アーディナータ寺院が作られた15世紀以降、インド固有の建築原理は 急速にその創造性を失い、新しく移入したイスラーム建築に 取ってかわられて行く。未完に終わった バッハの『フーガの技法』と同じく、インドの建築技法の集大成とも言うべき この寺院もまた、インド建築の「白鳥の歌」ということになるだろう。


  

鹿島出版会 『 SD 』誌 1986年 7月号 67-68ページ


 

ジャイナ教美術の粋

ラーナクプルの アーディナータ寺院

宇野惇(うの あつし、インド哲学、近畿大学教授)

   ジャイナ教は、仏教より古い歴史をもち、インドに生まれた宗教である。前 5, 6世紀頃 ガンジス河の中流に、ヴェーダを主とするバラモン教学に反抗して、自由思想家の一群 すなわち沙門(しゃもん)教団が生まれた。ジャイナ教と仏教は その代表者で、両者の間には共通点多く、いわば兄弟関係にある。後 3, 4世紀頃、バラモン教学から現在のヒンズー教が成立するが、それまで大衆の宗教は これら二大宗教によって独占されたと称して過言ではなく、以後 これら三宗教の鼎立の上に インドの精神文化が花を咲かせたのである。
 仏教は 13世紀初頭にインドから姿を消したが、ジャイナ教は 他宗教から迫害を受けながら、今日まで存続している。倫理的徳目としての<不殺生>を 最も重んずるのが特徴である。教徒は 主として商人階級に多く、約300万人を数え、相互扶助による強固な関係を保ち、僧侶、在俗者を問わず 厳格な規律を守っている。修行者が裸形、白衣の何(いづ)れを選ぶかによって、古くより空衣派と白衣派の二派に分裂し、中世に至って さらに その分派が生まれたが、教義の点では 大きな相違は見られない。
 一般に教祖とされるマハーヴィーラは、ジャイナ教徒の間では改革者と見なされている。彼以前に 23人の尊師(ティールタンカラ)を認めており、寺院は それら尊師の何れかを本尊として安置する。テーラーパンタ(白衣派)のごとく 尊像崇拝を認めない分派もあり、したがって 彼らは寺院をもたない。ジャイナ教では、尊師は 迷いを脱して解脱(げだつ)に達した先覚者であり、決して 衆生の救済者ではないから、仏教やヒンズー教のように 全身全霊の帰依によって それから恩寵を乞うという性格のものではない。したがって、先覚者に帰依して心の浄化を願うのが 寺院における礼拝の本来の趣旨であろうが、一般教徒の寺院礼拝は 他の宗教と同様に、帰依によって恩寵を願う というのが実情である。

 残存するジャイナ教寺院の 最古のものは、オリッサ州 カンダギリ山、ウダヤギリ山にある 前2世紀頃の作と伝えられる石窟寺院である。それ以後、エローラ、バーダーミのごとき 石窟寺院も散見されるが、本格的な寺院は 地上に建立された石造建築であり、インド全土に分布する。寺院の建立と寄進は 功徳をもたらす行為として、ジャイナ教徒の間に 古くより信じられ推奨されたため、現存寺院の9割は 教徒の寄進になるものである。
 美麗な寺院は 人里離れた遠隔の地に分布する。最も有名な寺院としては、サウラシュトラの シャトルンジャヤ山、ギルナール山、ラージャスターンの アブ山(以上 白衣派)、マイソールの シュラヴァナベルゴーラ、中インドの カジュラホなどに見ることができる。各種の素材が使用されるが、砂岩によるものが多く、ラージャスターン、パンジャーブ、グジャラート(含 サウラシュトラ)のものは 殆どが大理石を素材とする。

 ラーナクプルのジャイナ教寺院(白衣派)は ラージャスターンのファルナ駅郊外にあり、単独寺院としては 最も美麗なものの一つである。建物は 1439年の完成になる。宮殿(厨子)を内陣の中央に据え、その中に 四面に刻まれた尊師を安置し、その四面に対して 四つの入り口を配する<四面>(チャトルムカ)という 独特の形式を採用している。