● 東京堂の 『 世界宗教建築事典 』(中川武 監修、2001年発行)には、
「ボードガヤー、ボーディガラとマハーボーディ寺院」 171ページ
「パハールプル、ソーマプラ・ヴィハーラ(僧院)」 178ページ
「アーブ山、デルワーラ寺院群(ディルワーダ寺院群) 187ページ
「ラーナクプル、アーディナータ寺院」 188ページ
「シャトルンジャヤ、山岳寺院都市」 189ページ
「ハンピ、ヴィッタラ寺院」 195ページ
「アイホーレ、ドゥルガー寺院」 198ページ
「ビシュヌプル、ケシュタ・ラーヤ寺院」 206ページ
「アムリトサル、ハリ・マンディル(黄金寺院)」 213ページ
の9項を 神谷が書きましたが、ここには「アーブ山のデルワーラ寺院群(ディルワーダ寺院群)」のみを 以下に掲載します。
『 世界宗教建築事典 』 東京堂出版、2001年、187ページ
アーブ山の デルワーラ寺院群
外観偏重からインテリアの創造へ
神谷武夫
アーブ山、デルワーラ寺院群(ディルワーダ寺院群)
宗教――ジャイナ教・白衣派(シュヴェターンバラ)
建設年代――11〜13世紀
所在地――インド・ラージャスターン州・アーブ山
宗教的背景
前6世紀頃にブッダが生まれるよりも少し早く、同じ東インドのビハール地方で生まれたカーシャパ・ヴァルダマーナは30歳で出家し、12年間の苦行の後に 悟りを開いてジナ(精神の勝者)となり、ジャイナ教の開祖となった。彼はマハーヴィーラ(大雄)とも呼ばれ、アーディナータに始まる24番目の、そして最後の ティールタンカラ(祖師、ジナ)とされる。23番目のティールタンカラは パールシュヴァナータといい、マハーヴィーラの250年ほど前に実在したことが証明されているので、すでに パールシュヴァ教というべき宗教があり、マハーヴィーラは それを完成させたのだともいえる。ジャイナとは ジナに従う者、すなわちジャイナ教徒を意味する。
紀元前後に東インドに大飢饉があったときに ジャイナ教徒は南インドと西インドに移住したと伝えられ、現在は西インドに 最もジャイナ教徒が多い。西インドで 10〜13世紀のソランキー朝のもとで ジャイナ教の学問・芸術が高度に発展し、数々の優れた寺院が建てられたが、その代表が アーブ山のデルワーラ寺院群であり、ここには5つの寺院が並んでいる。古名をアルブダというアーブ山は、ジャイナ教とともに ヒンドゥ教にとっても6世紀頃から聖山とされていた。
建築的特質
5つの寺院は それぞれに時代が異なり、ひとつづつ 順次加えられていったので 寺院群全体の配置計画は存在せず、全体を貫く軸線も 広場もない。また各寺院の外観も あまり見栄えがしないのに、一歩中に入ると、そこには別世界が存在する。すべて白大理石で建てられ、繊細きわまりない彫刻がほどこされた内部は 清浄な華麗さに満ちている。最初に建てられたアーディナータ寺院は 11世紀にソランキー朝の大臣のヴィマラ・シャーによって建てられたので、ヴィマラ・ヴァサヒーと呼ばれている。これと並んで完成度の高いのが テジャパーラ・ヴァストゥパーラ兄弟によって13世紀に建立された、ルーナ・ヴァサヒーとも呼ばれる ネミナータ寺院である。さらに14世紀の ピッタルハラ寺院(アーディナータ寺院)と 15世紀の カラタラ寺院(パールシュヴァナータ寺院)を経て、最後の マハーヴィーラ小寺院が16世紀に建立された。
ヒンドゥ寺院は 建物自体が彫刻的であり、外部の壮麗さに対して 内部空間が貧弱で、暗い洞窟のイメージを 引きずっている。それに対して ここでは外部よりも 内部がすぐれ、持ち出し構造のドーム天井をいただく ランガ・マンダパ(会堂)から回廊へと続く空間の流れが、中庭からの光を受けて 浄土へといざなう。
関連文献
Harihar Singh : Jaina Tamples of Western India, Parshvanath Vidyashram Series 26, Parshvanath Vidyashram Reserch Institute, Varanasi, 1982 pp. 47〜107
神谷武夫「素晴らしきインド建築・ジャイナの小宇宙,
第1回, アーブ山のデルワーラ寺院群」 『at』 1993年3月号所収, デルファイ研究所 pp. 59〜65
Muni Shrî Jayantavijayaji : Holy Abu, Shri Yashovijaya Jaina Granthamâlâ, Bhâvnagar, 1954
図版
デルワーラ寺院群・平面図(Andreas Volwahsen: Living Architecture, Indian, 1969, Office du Livre, Fribourg, pp.134)
写真1:ヴィマラ・ヴァサヒー(アーディナータ寺院)の天井(神谷 撮影)
写真2:ルーナ・ヴァサヒー(ネミナータ寺院)のマンダパ(神谷 撮影)
■ 原稿を渡したのが1998年4月で、6月初めには 原稿料を もらったのに、発行が 遅れに遅れて、3年後の 2001年の9月にもなったのは、おそらく マフィアから出版社に 圧力が かかったのでしょう。何度も約束しては 出版を遅らせる東京堂出版に、早稲田側で編集を担当した 黒河内宏昌さんは、苦労したことでしょう。
|