文化・デザイン雑誌 『PEN』 No. 211、2007年 12月1日号、72ー73ページ
すべての芸術分野の中で最も彫刻を好んだインド人は、建築をも彫刻のようにつくろうとした。そしてインドの建築は宗教建築として発展したと言ってよい。しかしヒンドゥ教の前身たるバラモン教時代の建物は何ひとつ現存せず、インド建築が花開くのは、紀元前5世紀頃に誕生した仏教のもとである。その大部分は木造であったので消失してしまったが、岩山を掘削した「石窟寺院」はその堅固さゆえに多数が現存していて、古代のアルカイックな造形を見せてくれる。紀元前には仏像は存在しなかったのでストゥーパ(仏塔)を祀っていたが、カールリーの石窟はその古典的調和に満ちた静謐な宗教空間を提示している。ただ、それらは「洞窟」という性格上、彫刻的な外観を見せることはない。1世紀頃に成立したヒンドゥ教はこれに不満を感じたらしく、丸彫りの彫像のように岩山を彫刻して、石窟寺院ならぬ「石彫寺院」をつくってしまった。これを代表するエローラーのカイラーサ寺院は、高さ32mにも及ぶ巨大さとあいまって、訪問者を驚愕させる。この「彫刻的建築」の極地が、中世建築の開始を告げているのである。 古代に豊富な森林をかかえていたインドは次第に乾燥化が進み、中世には木材が払底するようになるので、建築は木造からレンガ造へ、そして切り石を積んだ「石造建築」となってゆく。建築のスタイルは北方型と南方型に分離し、前者は北インドのカジュラーホの寺院群、後者は南インドのガンガイコンダチョーラプラムの寺院によって代表される。ヨーロッパのゴチック建築にも匹敵するその彫刻的造形は、壁面のおびただしい神像彫刻とあいまって壮観である。中世後期になればいっそう細部が緻密化し、壁面は彫刻の洪水のような趣を呈する。しかし彫刻的性格ばかりが肥大化して、内部空間は狭く暗いままに取り残されると、それは建築本来の道からはいささか逸脱してしまったという印象も否めない。 それを修正するかのように西方から伝来するのが、アラビアに起こりペルシアで発展したイスラーム建築である。インドのイスラーム建築は中世の13世紀に始まったが、華やかな傑作を生むのは近世のムガル帝国においてである。インドの伝統的建築は木造で出発したがために、石造の時代になってさえも石を木のように用いて、柱・梁構造の「骨組的建築」をつくっていた。ところが砂漠的風土の中東においては初めから木材が欠如したので、石やレンガを放射状に積んで屋根を架ける方法-アーチどドーム構造を発明していた。したがってイスラーム建築はいたる所に曲線のアーチとドーム屋根が架かるので、ヒンドゥ寺院とはまったく異なった造形となる。しかも偶像崇拝を拒否するイスラームは彫像を一切もたず、壁面は幾何学紋や植物紋のアラベスクで飾られた。そして彫刻的建築たるヒンドゥ寺院が貧弱な内部空間しか持ちえなかったのと対照的に、イスラーム建築はアーチやドームを駆使して中庭や礼拝空間を囲みとることを主目的とする「皮膜的建築」だったのである。 そこで彫刻好みのインド人は中庭タイプのモスク建築よりも、彫刻的に扱いうる廟建築に熱意を注ぎ、第2代皇帝フマユーンの廟においてその形式を確立した。幾何学的なイスラーム庭園の中央に基壇を設け、その上に四面が同形の廟本体を置く。墓室の上には白大理石の大ドーム屋根を架け、その周囲にチャトリ(小塔)を立てる。四面のファサードはペルシアで発達したイーワーン(四角く枠どられた大アーチ開口の内側を半外部空間としたもの)である。本来はモスクの中庭を4基のイーワーンが内向きに取り囲むのであるが、インドの廟では4基のイーワーンを背中合わせにして外向きに反転させた。こうして本来皮膜的なイスラーム建築でありながら、インド特有の彫刻的表現を備えた廟建築が確立した。これを最も洗練させたのがタージ・マハル廟であるが、創造性という点ではフマユーン廟を買いたい。
さて仏教と同時期に生まれたジャイナ教は常に小数派であったがゆえに、建築的にも仏教やヒンドゥ教の後追いをすることが多かった。しかしものごとを多面的に見、絶対者の存在を否定するこの無神論の宗教は、本尊をも4体背中合わせにして四方(世界)に向かって教えを説くという「四面像」をつくった。
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