明治乳業の月刊 PR誌『 明治健康ファミリー 』、1998年5月号 7ページ
「世界文化 タージ・マハル 遺産の旅」特集におけるインタビュー記事

 

タージ・マハル廟についてのインタビュー

建築家 神谷武夫 先生

   1996年に出版された『インド建築案内』という、全573ページにも及ぶ大著があります。この本は インド各地に残る 古代から現代までの建物を 豊富なカラー写真入りで詳細に解説したもの。その定価が わずか 2,800円というのは驚きです。著者は、設計事務所を主宰する建築家の 神谷武夫先生です。

 「この著書は 22年にわたるインド建築の研究と 撮影旅行の成果です。この間、インドへは 12回ほど行き、撮影したカット数は2万枚を超えます。この中から掲載した写真は 1,800枚、地図や図面 300点、原稿は400字詰めにして約 900枚、通常の単行本3冊分ほどの密度になりました。西ヨーロッパに匹敵する面積のインドを 歴史的、地理的にとらえるには、このくらいのボリュームは必要です」

 タージ・マハル廟へは 5〜6回ほど足を運んだという神谷先生に、お話しをうかがいました。

 「最初は 22年前、あの頃は 朝早く行くと タージ・マハルには誰もいないんですよ、掃除人と管理人以外は。そんな絶好の場面で見たり、写真を撮ることができました。朝から行列をつくる 現在では 想像できないほど 牧歌的でしたね」

 さて、タージ・マハルの第一印象は どうだったのでしょう。

 「写真で見ていた姿より 実物は ずぅっと大きい、というのが実感でしたね。高さ 60メートルくらいありますから、丸ビルの2倍。基壇だけでも7メートルほどありますから、大きかったですね。それから、周囲が庭園で、うしろがヤムナー河、川向こうにまったく建物がなく、白大理石のタージ・マハル廟が 朝日に燦然と輝く美しさは、凄いものでした」

 タージ・マハル廟は、正方形の庭園の中央に廟を配する ペルシア風のチャハル・バーグ(四分庭園)の原則から はずれていますが、その点について 神谷先生はつぎのように話します。

 「インドの墓廟としては 特殊な存在です。仮に タージ・マハルが庭園の中央にあったとすると、募廟に近づくほど 全体像が見えにくくなります。募廟を庭園の向こうに置くことで 建物全体がきれいに見えるんです」

 イスラム庭園では 水路を作って噴水を配します。そのため設備には 現在の庭園のスケールが限界だといいます。「本当かどうかは わかりませんが」と前置きして、神谷先生は 次のように話してくれました。

 「シャー・ジャハン帝は、ヤムナー河をはさんで タージ・マハルの反対側に 黒い大理石で 自分自身の募廟を建て、ふたつの募廟を 橋でつなぐ構想をもっていたと いいます。こうすれば 左右は対称となり、タージ・マハル廟が 中央から外れているのも 納得できます。ただし、これは あくまでも伝説ですから 本当かどうかは わかりません」

 興味深い話ではありますが、タージ・マハル廟の大工事に あまりにも資金を投入しすぎたため、国家財政は逼迫。第6代のアウラングゼーブ帝は、シャー・ジャハーンを アーグラ城に幽閉してしまいます。

 「もしも、シャー・ジャハーンが 王妃よりも先に死んでいたら、この建物が 彼のための大募廟になっていた可能性は ありますね」





これが、3月24日の1時間半にわたるインタビューを まとめたものだとは、とうてい思えません。4月2日に、編集の ダディズホームの 坂田貞雄さんに、 次のような FAX を送りましたが、返事はありませんでした。

「 昨日もらったインタビュー原稿は やけに短くて、内容に乏しいな と思って、4月号のインタビュー記事と比べてみたら、4月号は 140行なので、それより 50行も少ないことが わかりました。2ページのところを1ページに縮めてしまったのですか? だとすれば、それはなぜですか? どこかから 圧力がかかった と考えても いいですか?」