「インド建築へのいざない」の 扉
ラーナクプルのアーディナータ寺院、メガナ-ダ・マンダパ見上げ
神谷武夫(建築家)
インドの人口は 最近 10億を超えたという。「悠久なるインド」も6年前に経済を開放して以来、急激な変化を迎えているが、古い歴史と広大な国土をもつだけに、その建築遺産には 膨大なものがある。ユネスコの「世界遺産」に登録されたものだけでも、タージ・マハル廟をはじめとして 現在16ヵ所を数えるが、これからも 続々と登録されていくだろう。気軽に海外旅行をするようになった日本人は、最近は欧米だけでなく、アジアへと足を向けるようになった。インドの建築文化は、これからいっそう注目されるに違いない。 |
古代の仏教寺院は ほとんど残っていないが、
東インドのオリッサ地方には ウダヤギリの僧院跡があり、
密教期の仏像も 多数発掘されている。9-10世紀
われわれにとって インドは、何よりもまず、仏教の故郷としての 親しいイメージがある。けれども 古代に支配的宗教となった仏教は、次第にヒンドゥ教に押されて、13世紀にはインドから姿を消してしまった。古代インドには 今よりも木材が豊富であったから、全国に建てられた仏教寺院は 木造、あるいはレンガ造であったために、今に残るものは ほとんど無い。旅行者の目を驚かせる古代遺産は、石窟寺院と石彫寺院である。初めは 出家者たちが住む横穴式の洞窟であったものが、次第に木造寺院を模して 柱や梁を彫り残した建築的な内部空間となり、ついには 岩山を上から彫って寺院の外形を彫刻し、内部に部屋を備える「石彫寺院」をも生んだのである。 |
古代から中世への橋渡しをするのが、岩山を彫刻した
南石彫寺院である。インドのマハーバリプラムには
小規模で未完成の石彫寺院が いくつも残っている。
ピダーリ・ラタ (7世紀)
中世インドでは 石造建築が大々的に発展し、いたる所に 石造のヒンドゥ寺院が建てられた。その様式は 大きく「北方型」と「南方型」に分けられ、特に聖室(ガルバグリハ)の上に建てられる 塔状の部分(シカラ)が 形を異にしている。それらを 南と北に大別しても、広い国土なので 地域による相違があり、さらに 時代による変遷があるので、多くのヴァリエーションを生むとともに、数々の傑作を残した。
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西方からイスラム建築がもたらされると、彫刻のない、
建幾何学的な築構成がインドに定着する。デリーのフマユーン廟は
赤砂岩の本体と 白大理石のドームで造られ、ムガル朝の
廟建築の形式を 決定した。16世紀
ムガル朝が弱体化すると、次第にヨーロッパの植民地とされ、洋風のコロニアル建築が 全国に建てられる。初めは ヨーロッパの丸写しであったものが、次第にインドの伝統建築の様式を取り入れた 折衷的なものとなり、これを「インド・サラセン様式という 奇妙な名で呼ぶようになった。 このように、現在見ることのできるインド建築の歴史をたどると、それは 石造建築の歴史となってしまうのであるが、実はインドにも 連綿と続く木造文化圏がある。それは北のヒマラヤ地方と、それとは飛び離れた 南インドのケーララ州である。それらは 地理的条件と宗教との組み合わせによって、多様な木造技術と表現を生んでいて、われわれ木造文化の民にとっては 興味が尽きない。そうしたインドの木造建築のいくつかを 今回は写真で見ていただき。次回から 順次詳しく訪ねていくことにしよう。
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ヒマラヤ山脈の中腹地方であるヒマーチャル・プラデシュ州は、
ヒマラヤ杉や松で覆われているので、民家も寺院も 木造で建てられてきた。
カムルのバドリナータ寺院は、山上の村の頂部に さらに高く寺院等を 聳えさせている。