『建築雑誌』 2002年2月号、日本建築学会


インド・サラセン様式の確立
メイヨー・カレッジ(アジュメール、インド)

 イギリスによるインドの植民地化は18世紀に始まる。彼らはインドの富を収奪しながら、一方でヨーロッパの文明や宗教をインドにもたらすことが善行であると考えていた。したがって、領土を増やすにつれて必要とされていった新しい建物にも、もっぱら西欧で行われていた様式をそのままインドに適用した。それがインドの気候風土に適しているかどうかには無頓着なままに。ところが1世紀が経過して、西洋システムの押し付けに辟易したインド人の忍耐が限界に達して一斉に蜂起すると(インド大反乱 1857〜59)、宗主国イギリスは大きな衝撃を受け、植民地体制を一新することになる。それまでインドを統治していた東インド会社を解体してイギリス政府が直接統治するとともに、制度的にはインドの伝統的な社会システムを尊重するようになる。

 カルカッタを中心として西洋の古典主義で建てられていた植民地建築にも反省の機運が生れる。インドに建てる新しい建物は西洋建築そのままではなく、土着の建築要素を加味、折衷すべきであると。では、いかなる土着の要素をとりいれるべきなのか? そこでオピニオン・リーダーとなったのが、臨時インド総督を務めたネイピア卿であった。彼は建築に造詣が深く、木造建築に起源をもつ柱・梁式のヒンドゥ寺院建築よりも、組積造のアーチやドームを原理とするサラセン(イスラム)建築のほうがヨーロッパ建築と相性がよいから、インドの植民地建築はムガル朝の建築と折衷させるべきであると主張した。

 それを体現したのが、若き建築家チャールズ・マント(1840〜1881)である。西インドのアジュメール市の郊外に建つメイヨー・カレッジは、インドのイートン校とも呼ばれるように、イギリス政府の肝いりでラージプート諸侯の王子たちを教育するために設立されたエリート校であったが、マントは 1875年に若干35歳でその設計案が採用されると、ここで大胆にインドの伝統様式を採り入れた。
 古典主義の建築には軒蛇腹(コーニス)はあっても庇というものがなかったが、一年の半分が雨季であるインドの伝統建築には必須のものであったので、腕木で支えられた石の板庇(チャッジャ)を全周にめぐらし、屋上にはムガル建築の小塔(チャトリ)を林立させた。大きなドーム屋根こそないものの、ここに折衷様式としての「インド・サラセン様式」が確立するのである。しかしその奇妙な呼び名が流布するのは、工事半ばに41歳でマントが発狂死したあとの 1880年代である。インド建築史を初めて体系化したジェイムズ・ファーガソンが『インドと東方の建築史』を出版したのは 1876年であったから、そこには Indian Saracenic Architecture(インドのイスラム建築)という章はあっても、Indo-Saracenic Style(インド・サラセン様式)という言葉はない。


(写真キャプション)
1.正面玄関の前にインド総督メイヨーの像が立っている。
2.総白大理石の本館脇に建つ時計塔には鉄骨造の王冠が載り、英王室の威光を象徴している。右側の棟はマントの死後にサミュエル・ジェイコブが設計した教室棟。

チャトリはドーム屋根、バンガルダール屋根、シカラ(ヒンドゥ寺院の塔状部)が混在している。時計塔の頂部には奇妙な王冠を戴いているが、これは鉄骨造である。シャフトが八角形にくびれているのは、円形の螺旋階段を内包しているからである。