| インドとモダニズムの邂逅 |
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近代建築の 3大巨匠と呼ばれるのは、ル・コルビュジエ (1887-1965) と ミース・ファン・デル・ローエ (1886-1969)、それにフランク・ロイド・ライト (1867-1959) である。 鉄とガラスのオフィス・ビルに象徴される ミースの建築スタイルは、工業化社会と経済中心主義の時代にマッチして、世界中の大都市に蔓延した。
そのように、世界のほとんどの国が ミースとコルの建築によって制覇されたのであったが、ライトがそれに置き代わっていても よかったように見える国がある。 インドである。 それはインドのメディチ家とでも言えるような アーメダバードの紡績業の財閥で、種々の文化の発展にも力を尽くした サラバイ家の ガウタム・サラバイ (1917-95) と、その妹の ギラ (1923- ) であった。 彼らは 1940年代前半の 2年間をライトのもとで修行し、帰国すると、ライトの作品をインドに実現させるべく サラバイ家を動かした。
インド独立前年の 1946年、ライトはサラバイ家の 綿織物業ビルの設計案を提出したのである。 ところが何があったのか、ライトとサラバイ家とは次第に仲が悪くなってしまい、ついにこの案は実現しないことになる。 そして振り子は ライトからル・コルビュジエへと振れることになるのだが、もしもこの時 ライトの建築が実現していれば、その後のインドの近代建築は、ずいぶんとちがった発展をとげていたことだろう。
しかしながら、インドとモダニズムの邂逅は、これが最初だったわけではない。 それより 9年も前に アントニン・レイモンド (1888-1976) が、ポンディシェリーの哲学者・宗教家のシュリー・オーロビンド (1872-1950) に招かれて、そのアシュラム (道場) の寄宿舎を 正統的な近代建築として実現していた。
シュリー・オーロビンド協会の寄宿舎、レイモンド
ライトの帝国ホテル設計のアシスタントとして来日して以来、独立して事務所を構えていたレイモンドは、しかし日本が次第に戦争体制へと傾斜して行くにつれて 日本にいづらくなった1937年、折りよくインドに呼ばれて、日本を去ったのである。
とはいえ、これがインドにおける最初のモダニズム建築であったわけではなく、話はさらに 7年をさかのぼる。
セント・マーチンズ・ガリソン聖堂、A・G・シュースミス 装飾を排した、構成主義風の力強いレンガの巨大なマッスは、インドにおける最初の近代建築となる。 シュースミスの名はその後聞かれなくなってしまうが、彼はル・コルビュジエと一歳ちがいの 隠れモダニストだったのである。
インドが ル・コルビュジエと出会うのは、パンジャーブ州の新州都、チャンディーガルの設計を依頼した1950年である。 当初は ネルー首相の知己だったアメリカの建築家、アルバート・メイヤー (1897-1981) に依頼されていたのだが、その協力者である建築家、マッシュ・ノヴィッキ (1910-1949) が事故死してしまったことによって 中断していた。 そこで州政府の委員会は ヨーロッパで何人もの建築家と面談した結果、コルを新都市と主要施設の設計者に選んだのである。 チャンディーガルのキャピタル・コンプレクス、ル・コルビュジエ これに呼応して アーメダバードでは、サラバイ家がライトからコルに乗り換え、その音頭によって 事業家たちやグジャラート州政府は次々に仕事を依頼することになる。 彼はチャンディーガルと並行して アフマダーバードに サラバイ邸、ショーダン邸、繊維業会館、サンスカル・ケンドラ美術館などを次々と設計したので、インドはフランス国内に次いで コルの作品の集積地となり、以後のインド建築界の方向を決定することになる。
パリの ル・コルビュジエ・アトリエで学んだインド人建築家、バルクリシュナ・ドーシ (1927- ) は、これらの建物の現場監理をするうちにアーメダバードに居つき、事務所 を構え、建築・デザイン学校の設立と その教育にも当たることになる。 アーメダバードがインドにおける モダン・デザインのメッカとなった立役者である。
一方、カーンには もっと大きな仕事が バングラデシュから依頼された。
バングラデシュの国会議事堂と アフマダーバードのインド経営大学、ルイス・カーン 1962年末、カーンは初めてインドとバングラデシュの地を踏むことになる。 これらの設計はカーンにとって 順風な仕事ではなかったが、インドに ル・コルビュジエ以外の巨匠の作品が実現した意義は大きい。 巨大なコンクリートの庇やブリーズ・ソレイユで彫刻的につくられたコルの建物が インドのヒンドゥ建築の伝統にマッチしていたとするなら、カーンの純粋幾何学のような建築は、イスラーム建築の伝統と まったく違和感がなかったからである。 |