TRAVEL TO HIMACHAL PRADESH 2
角塔型層塔型寺院

神谷武夫


チャイニの村と寺院搭(ヨーギニー寺院)

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角塔型の寺院塔

 ヒマーチャル・プラデシュ州は すべて山の中である。下界のインド平原のような乾燥地ではなく、山々は ヒマラヤ杉や樅(もみ)、そして松の緑に覆われているから、木材は豊富に産する。したがって古来、家々は木造で建てられてきた。
しかし 下界で石造建築が発達すると、ヒンドゥ教とともに石造寺院が伝えられ、次第に 伝統的な木造と外来の石造が融合するようになる。石を積んだだけの建物は ヒマラヤの地震に弱いことがわかると、木材を水平材として 石積み壁の間に挿入して 補強するようになった。こうした構造を「ドルマイデ」(Dhol-maide) というが、この木の水平材を 井桁状の枠組みとして密に積層させ、その間に石を詰めていく構造は「カトクニ」(Kath-kuni) と呼ばれる。

 こうした独特の混構造が成立したのは 14世紀頃だという説があるが、定かではない。パキスタンや アフガニスタンの北部 にも見られるから、あるいは 西方起源のものであるのかもしれない。
 ヒマーチャル・プラデシュ州の東半分では 民家から寺院や宮殿に至るまで この構造を原則としていて、その壁面は白い石と焦げ茶色の木部とが 美しいストライプを作る。この壁面を高く建てて角塔とし、最上階にバルコニーをまわして、切妻、あるいは入母屋の屋根を架けた寺院塔(角塔型の寺院)が、ヒマーチャル地方の 最も特徴的な建築形式である。

チャイニ村の女たち

 なかでも、3年前に初めて見出した チャイニ村の ヨーギニー寺院は 高さが 30mもあり、村の遠望写真を撮ると、まるで超高層ビルのように聳え立っている。実は、本来は もっと高かった。1905年のカングラ地震で 最上部の2層が崩壊してしまったからである。塔の下部は内部まで石の詰まったドルマイデ構造だが、そこに大きな亀裂が入っているのは、その時のものだろう。
 地震で破壊される前の頂部の姿を知っている人は もう現存せず、当時の写真も残っていない。現在の屋根は切妻だが、本来は入母屋であった可能性が高い。ずいぶんと威容を誇っていたことだろう。


チャイニ村再訪

 標高 2,000mの山上の チャイニ村(チェニとも発音する)へは、朝の8時にマンディを出発して、車で行けるところから さらに1時間のトレッキング、昼の 12時に 念願の再訪を果たすことができた。ここには 村の広場をへだてて もう1本の角塔が建ち、反対側には5階建てのクリシュナ寺院もあり、伝統を乱す要素は何もない。純朴で親切な村人たちの住むこの村は、まさに現代の 桃源郷 である。

  

  
ヨ-ギニ-寺院の外観と内部

 寺院の撮影をしていると、小さな女の子をつれた女性が 声をかけてきた。 3年前に寺院の階段下に 私を立たせて写真を撮ったでしょう、と。 おお、それでは あの時の少女が、今では娘の母となっている ヴィディヤー・デヴィー・タクールなのか。 ヴィディヤー・デヴィーという名前は、知恵の女神 の意である。 そして このチャイニ・コティの集落の住人は、全員が タクールという姓なのだという。
 つまり、これらの建物群は、かつてこの地方を支配した王国の領主(タクール)の 祭政一致の城郭であり、寺院塔は 物見塔としての天守閣でもあったのである。 4階までの 梯子のような外階段は、敵に包囲された時に はずして上れなくし、上から弓矢や火縄銃で応戦する仕組みであった。

 もう 1本の 低いほうの角塔は バンダール(モフラなどを収める宝蔵)として用いられているが、おそらくは こちらが古い天守閣であり、18世紀初めに より高い角塔が建てられてから バンダールとなったのだろう。また、タクール一族の中心住居が、今ではクリシュナ寺院に転用されているのである。

  
バンダ-ルと、チャイニ村の典型的な民家

 こうした角塔型寺院の原型は 民家にあると考えられる。 チャイニ村の民家を見ると、壁面は塗装されているものの 伝統的なカトクニの構造であり、1階は家畜小屋、2階が居住部で、その周囲のバルコニーが廊下であり、物干し場でもあり、雨季の作業場、日向ぼっこをする場所でもある。そして3階の屋根裏に 台所と物置がある。火種を絶やさないためか、竈(かまど)には いつも火がおこされていて、その煙が入母屋の妻部分の窓から排出されるのである。
 規模の違いはあるが、どの家も同じ構成をしている。これが 高く引き伸ばされたのが バンダールであり、城の天守閣であり、それにならった独立の寺院塔であって、これは 特にシムラ地方に多い。
 民家のバルコニーと屋根は 太い梁で豪快に持ち出されるのを常としたが、最近は経済性のために 梁を細くし、そのため 先端に細い柱を立てるようになって、形の魅力が薄れてきたのが惜しまれる。

  
<参考> ジョージア(グルジア)の塔状住居


ティーリの層塔型寺院

 去りがたいチャイニ村をあとにして、ジープは一路 ティーリへ。クル渓谷のビアス川沿いの街道から バージャウラーで折れてパラーシャル湖へと向かう道を3分の1ほど行くと ティーリの村である。ここでは約 40分のトレッキング。前回来たのは夕方で、トレッキングの間にとっぷり日が暮れてしまい、寺院に着いた時には真っ暗になってしまった無念の地である。 今回は十分明るいうちに たどり着き、ここも山頂なので、午後遅い 水平に近い光の中で 写真を撮ることができた。

ティ-リのア-ディ・プルカ寺院

 この ティーリのアーディ・プルカ寺院は、前記の角塔型に対して、日本の五重塔や ネパールの塔に似た 層塔型の寺院である。矩形プランの三重塔であるが、層塔型の頂部の屋根は 通常、円錐形をしている(その理由は明らかでない)
 19世紀にヒマーチャル地方の本を書いた ハーコート以来、こうした寺院形は「パゴダ型」と呼ばれてきたが、そうした呼称は不適切であるとして、私は ヒマーチャル地方の木造ヒンドゥ寺院の新しい分類と呼称を、1999年の9月に「インド考古研究会」で発表した。すなわち「合掌型」、「層塔型」、「複合型」、「角塔型」という4分類である。
  ヒマーチャル地方の木造建築を 古くから研究している O・C・ハンダが、昨年その研究を集大成した本を出版したので それを見たら、彼もまた前著まで採用していた「パゴダ型」というような呼称を排して、私のものに近い 分類と呼称を採用していた。今後はもう「シャーレ」や「パゴダ」という言葉を使わなくてすむだろう。

ア-ディ・プルカ寺院の内部

 ティーリの寺院は、近年修復された時に 木部が塗装されてしまったが、頂部の円錐屋根は 昔ながらに木の板で葺かれている。かつては すべてが木であったが、今では 下の2層はスレート葺きである。珍しいのは 堂の手前に一段低く、回廊で囲まれた前庭を付していることで、これが半外部のエントランス・ホールになっている。
 堂の内部に入ると、上層階を支える4本柱が立っていて、石造寺院における「マンダパ(拝堂)」のように見える。そこで「ガルバグリハ(聖室)」に相当するミニ祠堂を設置して、その中に 本尊のモフラを安置しているのである。

(『建築東京』2003年1月号)


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