OBSERVATORY ( Jantar Mantar) in JAIPUR
ジャイプル
天文観測所(ジャンタル・マンタル)

神谷武夫

西インド、ラージャスターン州、デリーの南東約 230km
2010年 ユネスコ世界遺産の文化遺産に登録

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天文観測所

 西インドのラージプート諸族は、ヒンドゥ教を奉じながらイスラームのムガル帝国に臣従し、半独立の藩王国を維持した。ジャイプルの英明な藩王、ジャイ・シング2世はサンスクリット語やペルシャ語に通じたばかりか、科学への情熱に燃え、とりわけ天文学と占星術にうちこんだ。ペルシャやヨーロッパの書物をも集めて研究し、天文観測をより正確にするために、実験室における天文観測儀を建築的スケールに拡大して建造し、学問の精密化をはかったのである。

 サワイ・ジャイ・シング2世がアンベールの藩王の地位についたのは、わずか13歳のときだった。20歳の時に第6代ムガル皇帝のアウラングゼーブが逝去し、その息子たちが王位継承戦争をするが、ジャイ・シングは負け組についたためにムガル朝との関係が悪化した。しかし次々と皇帝が変わり、第12代ムハンマド・シャー(位1719−48)とは友好を結び、33歳でアーグラの太守、35歳でマールワーの太守に任じられた。41歳の時の1727年にはジャイプルに新都市を造ってアンベールから移り、ジャイプル藩王国の王となる。

 一方 天文学に打ち込んでいたジャイ・シングは、ムガル皇帝のムハンマド・シャーから 正確な天文表と暦の作成を依頼され、まず デリーに 天文観測所(ジャンタル・マンタル)を造営した。次いで ウジャインとマトゥラー、バナーラス(ヴァーラーナシー)に同様なものを建設し、それらの集大成として、自国のジャイプルに最大規模の造営をした。(マトゥラーのものは全く残っていないが。)観測儀は、日時計、照準儀、星座儀、子午線儀、天体経緯儀などからなるが、その造形には伝統的な形態を用いず、また一切の装飾をせず、純粋な幾何学と曲線だけで構成した。住居や寺院とは全く異なった機能に基づいているので、それらは建物として見ると 我々の意表をつく不思議な造形であり、20世紀の表現派の建築、あるいはロシア構成派の造形を思わせる。さらにはまた、フランス大革命時代の「幻視の建築家」ブレや ルドゥの 空想上の作品を連想させもしよう。

ジャイプルの藩王、サワイ・ジャイ・シング (1686-1743)
(From "The Astronomical Observatories of Jai Singh"
by G.R. Kaye, 1918, Calcutta)

 「ジャンタル・マンタル」というのは、サンスクリット語のヤントラ(Yantra, 器具、器械)とマントラ(Mantra、言葉、呪文)の なまったもので、初め デリーの天文観測所がそう呼ばれ、後にジャイ・シングの他の天文観測所も そう呼ばれるようになった。

 暦を制定するというのは、為政者の重要な仕事である。行政のためばかりでなく、宗教的祭儀のためにも、税金の計算・徴収のためにも、国中で通用する暦がなければならない。暦を制定するためには太陽や月の運行、正確な時間の測定、その基準となる地点の設定、などが必要である。もっとも、古代・中世の天文学は 占星術と不可分の関係にあり、多分に宗教的偏見に満ちていて、科学としての天文学はガリレオやケプラー以降の西欧近代の発展を待たねばならなかった。

 それでも 古代から天文学や占星術に傾倒する君主は 各地にいて、中には それを建築的スケールで作ろうとした。古代エジプト文明にもあったろうが、今回のインドとは結びつかないものの、古代マヤ文明が天文学を発達させていたことは よく知られ、チチェン・イッツァ(メキシコ)には 天文台と見なされるシンボリックな建物が残っている。

  
メキシコ、チチェン・イッツァの天文台 10世紀

 イスラーム圏では、古くから巨大な観測儀が建設されたらしい。バグダードやイスファハーン、イスタンブルにも建てられたが、特に名高いのは13世紀のマラガ(イラン)の天文台と、15世紀のサマルカンド(ウズベキスタン)の天文台である。当時のイスラーム天文学は ヨーロッパよりもずっと進んでいた。イル・ハーン朝の初代君主 フラグ・ハーンの命で天文学者 ナシール・アッディーン (1201-74) が建設した マラガ天文台には 今では何も残っていないが、ウルグ・ベクのサマルカンド天文台は 地下部分が発掘されて保存され、建物の上部構造も 図面上で推定復原されている。
 ウルグ・ベク (Ulugh Bek, 1394-1449) は ティムール朝の第4代君主(位 1447-49)で、サマルカンドの天文台の観測結果をもとに『ウルグ・ベクの天文表(ズィージュ)』を編纂した。それはヨーロッパにも伝えられて研究された。ただ 王位をめぐって息子との戦争で謀殺されたあと、その観測器の多くは破壊され、またイスラーム世界でウルグ・ベクのあとを継ぐ者もいなかった。ムガル朝の祖バーブルが訪れた1497年には、天文台は現存していたという。ジャイ・シングの天文観測所の 直接の先祖である。

  
サマルカンドのウルグ・ベク天文台 1420

 その後まもなく ヨーロッパは ルネサンスをむかえ、天文学は急速に進歩した。イスラーム天文学の伝統に加え、ヨーロッパの資料なども集めて、総合的な天文観測所をインド各地に シリーズのように建設したのが、18世紀のジャイプルの藩王、ジャイ・シング2世である。
 天文学に関するヒンドゥの古文献としては『スーリヤ・シッダーンタ』と『ブラーフマ・シッダーンタ』の2書があった。ジャイ・シングとその助手(というよりは師)のジャガンナートは これらに種々の誤りがあるのを見いだし、ヒンドゥの祭儀の日取りを決める暦を正すべく、天体観測を厳密にするための観測儀の改良を促し、さらには それを巨大化して観測値の一層の正確さを求めたのだった。ジャガンナートはサンスクリット語で 新しい天文学の書『サムラート・シッダーンタ (Samrat Siddhanta) 』を著した。

 ジャイ・シングは 小規模な試作品を閲覧に供したのかもしれないが、ムガル皇帝 ムハンマド・シャーから、デリーに大規模な天文台を作って 天体観測をし、 正確な天文表と暦を作成することを依頼された 。工事は 1719年に始められて 1724年に完成したという。彼はここでの観測値をもとに、『ウルグ・ベクの天体表』を改良して、ジャガンナートと共同で『ムハンマド・シャーの天文表 (Zij Muhammad Shahi) 』を作成して 皇帝に献じた。
 その後 ジャイ・シングはバナーラスとウジャイン、マトラーにも天文観測所を作ったが、マトラーのものは19世紀に破壊されて、何も残っていない。最後に彼は 自国のジャイプルの宮殿地区内に、それらを集大成して 最大規模の天文観測所(ジャンタル・マンタル)を造営したのである。


携帯用 アストロラーベ

 ジャンタル・マンタルで最も重要なのは アストロラーベと呼ばれる 携帯用の器具で、天体観測、経緯度や時間の計算、星座表など、多用途に用いられた。オリジンは古代ギリシアで、9世紀頃に中東で実用化したという。ジャイプルには多数残っていて、ジャイプルの天文観測所内には 鉄製と真鍮製の2基の大型のものが吊られている (Yantra Raj)。実際の主目的は 占星術用だったろう。

 建築的な天文観測所で 最も目立つのは、巨大な サムラート・ヤントラである。どこの観測所でも一番大きく 高く、直角三角形をしていて、最大のジャイプルのものは 頂部の高さが 27.5メートルにもなる。その斜辺には階段が設けられていて、それを上ると境内と諸ヤントラ(観測儀)が一望のもとに見渡せる。
 ジャンタル・マンタルのヤントラ群は 建物のように大きいが、それらはヒンドゥ建築にせよイスラーム建築にせよ、伝統的な様式、装飾は一切用いず、ひたすら純粋な幾何学形態だけで構成している。ジャイプルの 大サムラート・ヤントラにだけは 頂部に伝統的な形態のチャトリがあり、そこが モンスーン期の到来や 天候の予測の観測室として用いられた。その役職の者だけが行けたので、階段の登り口にはドアがつき、普段は施錠された。直角三角形の斜辺が 午前中は西側の、午後は東側の円弧に影を落とし、円弧に刻まれた目盛りによって 正確な時刻を得るという、巨大な日時計である。

ジャイプルの 大 サムラート・ヤントラ
  

ジャイプルの天文観測所の、大 サムラート・ヤントラ(赤道儀)平面図
(From "Cosmic Architecture in India" by Andreas Volwahsen, 2001, Prestel)
両翼は、それぞれ四分儀と六分儀が組み合わせられた 三次元曲面をしている。


ジャンタル・マンタルが建設された頃には ヨーロッパの天文学のほうがずっと進んでいたので、発明・発見という観点からの科学史上の意義は あまり大きくないが、それら建築的規模の施設の、インドやイスラーム建築の伝統とは かけ離れた、むしろエーリッヒ・メンデルゾーンや ブルーノ・タウトら、近代の表現主義の造形を思わせるような姿が、現代の建築家たちの目を惹きつけたのであった。以下に、サワイ・ジャイ・シング2世によるインドの天文観測所を、順に見ていくことにしよう。



デリーの天文観測所  1724

 最初に実現したジャンタル・マンタル、デリーの天文観測所は ムガル皇帝のムハンマド・シャーからの依頼だったが、土地は サワイ・ジャイ・シングの所有地だったという。彼がアーグラの太守に任命された 1719年から、1724年にかけて建設された というのが定説だが、多少の不確実性も残る。どのジャンタル・マンタルも、正確な建設年を知るのは困難である。
 ジャイ・シング2世は、初めはイスラームの古文書に則って 観測儀を作ったものの、不満足な結果になったので、すべて自分自身の設計で作り直したという。ただ 最も特異な形をした ミシュラ・ヤントラだけは 彼の没後の建造なので、息子のマドゥ・シングの仕事だろうと言われている。もっとも マドゥ・シングは天文学への情熱を欠いていたというから、きわめて才能ある建築家を抱えていたのかもしれない。英領時代の政府考古局の求めでG・R・ケイが調査した1915年頃には 周囲に何もない、荒野のような敷地だったが、英領時代末期の1931年に新首都ニューデリーができると その中に組み込まれ、今では高層ビルに囲まれた公園になっている。
 ル・コルビュジエは チャンディーガルの仕事のためにインドに来るたびに、デリーのジャンタル・マンタルを訪れ、時にはスケッチをしていたそうである。その幾何学的造形に惹かれたのだろう。

 

デリーの天文観測所の配置図と、公園として整備された現状
(From "The Astronomical Observatories of Jai Singh" by G.R. Kaye, 1918)
(From "Cosmic Architecture in India" by Andreas Volwahsen, 2001)

  
大サムラート・ヤントラと、ジャイ・プラカーシュ・ヤントラ
  
ラーム・ヤントラと、ジャイ・プラカーシュ・ヤントラ
魔術的な ミシュラ・ヤントラ


バナーラスの天文観測所  1737

 ガンジス河に沿うダシャーシュワメード・ガート(階段岸)のすぐ北にマーン・マンディル・ガートがあり、この上にガンジス河を見晴るかす 17世紀初めのマーン・マンディル宮殿がある。これはジャイプル藩王国の離宮で、サワイ・ジャイ・シングの5代前の祖先、ラージャ・マーン・シングによって建てられた。ジャイ・シングはこの屋上に天文観測所を設立したのである。それだけ規模が小さいが、太陽の水平光がさまたげられることなく 受けられたからだという。
 G・R・ケイが調査報告書に これを 1737年の造営と書き、それが定説となっているが、1710年の建設という説もあり(フォルワーゼン)、それは納得しやすい。ジャイ・シングが 離宮の屋上に、まず小規模に天文観測所を作ったところ、それがムガル皇帝の耳にはいり、それをもっと大規模にデリーに作って天文表と暦を作成するよう依頼されたのだとすれば、辻褄があう。実績のない 若い外様大名に、いきなり首都に大規模な天文台を作らせるというのは、やや腑に落ちない気もするからである。定説どおりなら これが最後のジャンタル・マンタルということになるが、G・ティロットソンは、デリー、ジャイプルに次いで これが3番目で、これと同時期(1724 -34)にマトゥラーとウジャインにも建設されたという。要するに、すべてのジャンタル・マンタルの建設年は あいまいだ というわけである。

バナーラスの天文観測所、配置図
(From "A Guide to the Observatories" by G.R. Kaye, 1920, Calcutta)

バナーラスの天文観測所、全景図(A・キャンベルによる版画 1773)
(From "Cosmic Architecture in India" 2001,Prestel)
マーン・マンディル宮殿の屋上に作られたことがよくわかる。

  
バナーラスの天文観測所(ジャンタル・マンタル)


ウジャインの天文観測所  C. 1730

 ウジャインは古代から「インドのグリニッチ」であり、ヒンドゥの天文学者(占星術者)たちは ここに 基準子午線が通ると見なした。3世紀頃の『スーリヤ・シッダーンタ』や、ヴァラーハミヒラによる6世紀の『パンチャ・シッダーンティカー』に、そうした記述がある。ジャイ・シングは そうした伝統的重要性から この町にジャンタル・マンタルを建設したのだと思われるが、その時期は不明で、ジャイ・シングが 1721年にムガル朝のムハンマド・シャー帝からマールワーの太守に任命されて以後ではあろうという。1915年に G・R・ケイが調査した時には観測儀の工事の粗雑さから ひどく荒廃していたようだが、その後 考古局によって丹念に修復・保存された。

ウジャインの天文観測所、配置図
(From "A Guide to the Observatories" by G.R. Kaye,1920, Calcutta)

  
ウジャインの天文観測所(ジャンタル・マンタル)




マトゥラーの天文観測所

 ジャイ・シング2世は、やはりマーン・シングが16世紀末に建設してあった、マトゥラーのカンス・キラー城塞 Kans Qila Fort の頂部に、5つ目のジャンタル・マンタルを建設した。しかしインド大反乱の少し前に城砦が売却され、建設材料として使うべく ジャンタル・マンタルはすべてが破壊されて、今では跡形もない。イエズス会の宣教師 ティーフェンタラーが書き残したところでは、それはジャイプルのミニチュア版だが、平地のジャイプルと違って山上なので、日出、日没時の水平線上の星々を観測することができたという。
 マトゥラーのジャンタル・マンタルの建設時期は 1738年頃という説もあるが、確証はない。Z・M・シャーヒの書き残したところによると、デリー天文台での観測数値を確かめるために、ジャイプル、マトゥラー、ウジャイン、バナーラスの順に建設したという。そのように、ジャイプルが デリーに次いで2番目だという説も多い。建設開始が早かったせいだろう。


ジャイプルの天文観測所  1734

 ラージャスターン州の州都であるジャイプルは、18世紀の計画都市であった。アンベールの山城に拠っていた 名門ラージプートのマハーラージャ、サワイ・ジャイ・シング2世 (1686 -1743) は、1727年に アンベールの南 11kmの平地に新都市を築き、自身の名をとってジャイプルと名付けた。新都市は 古文献によるインドの伝統思想と、デリー城などに実現されていたイスラームの 四分庭園的な幾何学構成とを結合して、インド史上 最も注目される都市計画となった。町は約800m角の正方形を9区画並べて、中央部を宮廷地区とした。碁盤目状の道路網からなる整然とした都市は、200年後の近代都市計画を髣髴とさせよう。町を構成する多くの建物がピンク色に塗装されているので、ピンク・シティの異名をとり、現在は南側に新市街が発展し、州都としての活気を呈している。宮廷地区には 宮殿ばかりでなく、大規模な天文観測所(ジャンタル・マンタル)も造営された。

グリッド状の都市計画がなされた ジャイプルの都市図
都市軸が 南北軸とは 約15°ずれている。城内の赤丸が 天文観測所の位置。

 ジャイプルのジャンタル・マンタルは G・R・ケイの本では 1734年頃の建設とされ、それが定説になっているが、G・ティロットソンなどは、都市の建設より約10年早い1718年に建て始めたという。(それだったら、敷地の形状は都市軸ではなく 南北軸になっていただろうから、都市の建設のすぐあとに ジャンタル・マンタルの建設が始まった、と考えるほうが 妥当である。)すべての施設(観測儀)は ジャイ・シング2世の設計になり、石造の観測儀が13基、金属製が3基あって、当初のまま残っている。また 彼が収集した書籍や文書は マハーラージャ・サワイ・マーン・シング2世博物館に保存されている。

 ジャイ・シングはヨーロッパ人の批評的意見を聞き 情報も得たいと、ゴアのイエズス会士で天文学にも見識のあった ペドロ・ダ・シルヴァ・レイターオを招いた。ペドロは 1731年にジャイプルを訪れ、ジャンタル・マンタルに感嘆したのか、60年後に没するまで ここに住んだという。1740年にはその仲間も加わったというから、こうした君主のもとでは生活しやすかったのかもしれない。しかしニュートンやケプラー、ガリレオなどは カトリックにとって異端であったから、ジャイ・シングは西洋の先端の科学的天文学の知識は得られなかったことだろう。
 なお、ジャンタル・マンタルの各観測儀の設計図というのは まったく残っていないが、ジャイプルの場合には 多くの観測儀の模型が発見された。しかし それらが実物の建設前に作られたのか、あるいは 後の時代のものかは 不明である。

平面図
ジャイプルの天文観測所 配置図
  
ジャイプルの天文観測所 全景

大 サムラート・ヤントラの立面図
(From "Cosmic Architecture in India" by Andreas Volwahsen, 2001)
直角三角形の高さ 約24m、底辺は 約44m、斜辺は 約50m


  
ジャイプルの西側施設と、ラーシ・ヴァラーヤ・ヤントラ
  
ナリ・ヴァラーヤ・ヤントラと、チャクラ・ヤントラ
  
ウンナタンシャ・ヤントラと、ラーム・ヤントラ
  
ジャイ・プラカーシュ・ヤントラと、カパーラ

 結語として、今から30年前に翻訳した、アンリ・スチールランの『イスラムの建築文化』から、ジャンタル・マンタルに関する部分を再録しておこう。

 ジャイプルにおける最大の興味は、立派な宮殿によりも、宮廷地区の中央に造営された驚くべき天文観測所にある。ジャイ・シング2世は科学への情熱に燃え、3世紀前にウルグ・ベクがサマルカンドに建ててたものを範として、ジャイプルばかりか デリー、マトゥラ、ウジャイン、そしてバナーラスに巨大な星座観測儀群を建設させた。インドで日の目を見た、科学のための建築の創造は、このようにティムール朝芸術の遠い子孫としてイスラームの作品譜の血統に連なっているのである。

ラーシ・ヴァラーヤ・ヤントラ

 1728年から1733年にかけて建設されたジャイプルの観測所は、たぶんインドにおける一連の天体観測のための建物の中では、最も完全なものであろう。それは30メートルもの高さをもつ三角形の大きな日時計や、種々の目だった天体の運行を測るための照準器(ラチ)、天文学者のための坑道や室をそなえた地下建築などを含んでいる。これらの建物の目的は、その当時用いられていた器具の 100倍もの大きさの施設群を実現して、観測の正確を期することにあった。その結果として超現実的な姿をした 驚くべき建築が立ちあらわれ、円、円筒、半球状の窪み、三角形、黄道プランの弧状アーチなどの純粋に幾何学的で機能的な形態によって、まことに大胆で現代的な性格の作品を生み出したのだった。
 こうしてインド・イスラーム芸術は、ムガル朝の形態と技法を天文学の要請に結びつけ、啓蒙時代を生きた 教養豊かなヒンドゥの藩王(マハー・ラージャ)の愉しみのために、科学の讃歌としては 途方もない建築を出現させたのである。




ジャイ・シングの天文観測所について詳しく知りたい人のために、
有益な本を3冊だけ紹介しておきます。

   

THE ASTRONOMICAL OBSERVATORIES OF JAI SINGH
『藩王ジャイ・シングの天文観測所』: ジョージ・ラスビー・ケイ、1918年
by G.R. Kaye , 1918, Government of India, Calcutta,
[ Archaeological Survey of India, New Imperial Series 40.]

大型本、32× 25× 2.4cm -210pp. ジャイ・シング2世が建造した各地の天文
観測所の、考古局による詳細な調査報告書。折込みでウジャインの都市図つき。
ジョージ・ラスビー・ケイ (George Rusby Kaye, 1866-1929) が、A.S.I.
(インド政府考古局)の調査報告書として出版した、今からちょうど100年前の本。
かなり傷んだ古書を、インドの古書店が修復して革製本した。


   

A GUIDE TO THE OLD OBSERVATORIES at Delhi, Jaipur, Ujjain, Benares
『ジャイプルなどの古天文台概要』 : ジョージ・ラスビー・ケイ、1920年
G.R. Kaye, 1920, Superintendent Government Printing, Calcutta

インド政府出版印刷局による布装の小型本、21× 14.2× 1.6cm -140pp.
ジャイ・シングによる天文観測所についての ハンディな一般向け概説書。
前掲書の 同著者による要約だが、それぞれの配置図も付いて まとまりがよい。


  

COSMIC ARCHITECTURE IN INDIA by Andreas Volwahsen
『インドの宇宙的建築』: アンドレアス・フォルワーゼン, 2001年
Prestel, 2001, Munich, London, New York, Mapin Plublishing, Ahmedabad
大型本 30.5× 24.5× 1.8cm ー160pp. ジャイ・シング2世による天文
観測所の総合的研究に、大型のカラー写真や 新しく作成された美麗な図面を
加えた豪華本。世界各地の先行施設との比較・影響関係も論じられている。




ところで「ジャイプル」を「ジャイプール」と書いたり 発音したりする人が いますが、(ガイドブックまで)それは誤り。「PUR プル」というのは サンスクリット語からきてヒンディー語にもなっている言葉で、「町」「都市」の意味です。「ウダイプル」や「ジョードプル」「ラーナクプル」をはじめ、インドに「 ――プル」という名の都市が多いのは そのせいで、「プール」では別の意味になってしまいます。『インド建築案内』は、あれだけページ数の多い本なので 多少の間違いも あるでしょうが、基本的に すべての地名に、歴史をふまえた 現地発音に近い カタカナ表記がしてあるので、それに倣ってほしい。  

(2018/06/01)


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