CHURCHES AND CONVENTS in GOA
ゴア
ゴアの聖堂と修道院
神谷武夫
ゴアのセ・カテドラル
南インド、ゴア州、ムンバイの南約400km
1986年 ユネスコ世界遺産の文化遺産に登録

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16世紀初頭、ビジャープルのイスラーム王朝の支配下にあったゴアは、ポルトガルの艦隊によって攻略された。すっかり破壊されたゴアは占領され、リスボンを模して華麗に再建されると、ポルトガルの対アジア貿易と キリスト教宣布の基地となった。16世紀ポルトガルの詩人 カモンイスは ゴアを訪れた後、出版した叙事詩『ウズ・ルジアダス』のなかで、この都を「東方一の貴婦人」とたたえた。その「黄金のゴア」も、18世紀から19世紀にかけて衰退し、偉容を誇った聖堂、修道院、宮殿などが 鬱蒼とした森にのみこまれてしまった。それでも オールド・ゴアの遺跡群は 今も昔日の栄光と繁栄をしのばせてくれる。



「東方一の貴婦人」

 今から 500年近く前、古いゴアの町とマンドヴィ川を一望のもとにする丘(セッラ)で、アフォンソ・デ・アルブケルケ(1453〜1515)は 戦いの指揮をした。それは 1510年のことで、この丘に据えた大砲から放った砲弾が、ビジャープルのスルタン、ユースフ・アーディル・シャーの騎兵隊を粉砕したのである。今では生い茂る草木にすっかりおおわれたこの地にアルブケルケは戦いの勝利を記念して、マヌエル様式の簡素なノッサ・セノーラデ・セッラ聖堂を建立した。
 ポルトガルのインド植民政策は、この勝利によって基礎を固めることができたのであり、のちにアルブケルケは総督に任じられた。16世紀末に絶頂をきわめた往時のゴアには、60にもおよぶバロック様式のキリスト教聖堂や壮麗な宮殿が美を競っていた。
 ポルトガルの大詩人ルイス・ヴァス・デ・カモンイス(1524〜1620)は 16世紀半ば、人口 20万を超えた植民都市ゴアを訪れ、この地で愛国的な叙事詩 『ウズ・ルジアダス(ルシタニアの人々)』を執筆してポルトガルの歴史を記した。そのなかでポルトガルの領土拡大とキリスト教宣布の努力を大いに称賛し、繁栄するゴアの町を「東方一の貴婦人」と形容した。のちにゴアの中央広場には、その業績を顕彰すべくカモンイスの彫像が立てられたのだが、今は無い。1961年にゴアがインドに併合された後、ガンディーの像に置き換えられたのである。

  
聖カジェタン修道院聖堂のド-ム天井と、木造の祭壇

 かつて「黄金のゴア」の異名を誇ったこの町も、現在はすっかりさびれている。残された昔の遺構は、10余りの聖堂を数えるにすぎない。17世紀の聖カジェタン修道院の聖堂はそのひとつで、規模は小さいが、ローマのサン・ピエトロ大聖堂にならって中央にドーム屋根を架け、西正面に22基の塔を配した構成をとっている。ゴアの聖堂は多少の例外はあるが、通常はラテライトで建てられた。ラテライトというのは鉄分を含んだ紅い土壌で、石のように硬いので建設資材として用いられるが、表面が粗いので、プラスターで白く塗り固める方法がとられる。この方法は、カトリックの宣教師たちがここを拠点として、キリスト教信仰を広めたアジアの各地で継承された。

「黄金のゴア」 の繁栄

 もともとアルブケルケは、インド制覇をめざすという領土的野心をもっていなかった。彼の目的は、古代インドの叙事詩『マハーバーラタ』のなかで楽園のようなゴーマンタと謳(うた)われたこのゴアに、広くアジア諸国と交易を結ぶポルトガルの東インド会社を設立することだった。スペインとポルトガルが世界の領有を二分するという内容の 1494年のトルデシーリャス条約に基づいて、アルブケルケは 1510年の勝利ののち、ゴアを新商業都市に仕立てていった。
 マンドヴィ川に面したゴアの港は、東アジアを連結するベンガル湾の航路と、東アフリカ沿岸に達するアラビア海の航路との中継地として機能すると同時にインド内陸の市場にも開かれた重要な位置を占めることとなったのである。
 ゴアの町は、母国ポルトガルのリスボンをモデルに建設が進められた。港のドックにつながる場所には広い公共広場が設けられ、そこを中心に大聖堂や修道院、総督の宮殿など主要な建物が配された。街には不規則で曲がりくねった道路が網の目のようにめぐらされ、港には大規模な堤防が設けられた。
 ゴアの商人は、南インドの最後のヒンドゥ帝国であるヴィジャヤナガラにアラブ産の馬を提供し、その見返りとして香辛料、コーヒー、紅茶など、需要の多い嗜好品を手に入れていた。最初の総督は、住民のカトリックへの改宗をとくに望んだわけではなく、むしろカトリック教徒とヒンドゥ教徒とのあいだの結婚を奨励しさえした。人々がこれに進んで応じたかどうかは不明であるが、フィダルゴ(白人の地主)と黒人奴隷、そして現地人との混血が行われたことは、人々の顔立ちを見れば明らかであろう。

  
アッシジの聖フランシス修道院聖堂とその内部


キリスト教の定着

 こうした宗教上の寛容さは、この地に来住したカトリックの宣教師たちにとって愉快なことではなかった。彼らはしだいにヒンドゥ寺院を破壊するようになり、改宗に応じない者を異端審問にかけて迫害した。容赦のない宗教裁判が行われた建物は、今は取り壊されて跡形もないが、聖カタリナに献じられた大聖堂の近くにあった。ヒンドゥ寺院を破壊して、その上にキリスト教の聖堂や修道院を建設したこともたびたびであった。ゴアが「東方のローマ」の異名で広く知られたのも、聖堂や修道院が数多くあったからである。
 巨大なセ・カテドラル(大聖堂)が着工されたのは、ゴアの征服から 52年後の 1562年であったが、工事は長期にわたり、完成をみたのは 1619年である。この大聖堂のファサードはルネサンス期のトスカーナ様式でつくられており、現在でもミサが執り行われる聖堂である。鐘塔に吊るされた鐘はゴアで最も大きく、「金の音色の鐘」と謳われた。
 この東隣にある、アッシジの聖フランシス修道院とその聖堂は、今では博物館として用いられている。もともとはフランシスコ会の修道士が 1517年に建てた小さな聖堂であったが、のちに拡大され、さらに 1661年に再建された。扉口と聖歌隊席がポルトガルのマヌエル様式でつくられ、内部の身廊は金箔を貼った木彫の像やレリーフ、そしてフレスコ画で隅々まで飾られていた。
 1594年に建立されたボム・ジェズ・バシリカは、外観は正面のみバロック的に装飾されている。小さな円窓が多数あけられている側壁と鐘楼は、ほかの聖堂と異なり、塗装のないラテライトの肌で仕上げられた。内部はシンプルな単廊式の礼拝室で、ルネサンス様式の名残も随所に認められる。最も華やかに装飾された内陣には、木彫に金箔をかぶせた豪華な祭壇衝立が設置された。

ザビエルの遺体のあるボム・ジェズ・バシリカ


フランシスコ・ザビエルの宣教

 ボム・ジェズ・バシリカには、スペインのイエズス会士で日本にまで宣教活動をした、フランシスコ・ザビエル(1506〜1552)の遺体を安置した祭室も設けられている。ザビエルがゴアに到着したのは 1542年であった。そのときすでにゴアにはキリスト教徒の社会が存在していた。おそらく彼らは、5世紀にメソポタミアから移ってきたネストリオス派のキリスト教徒の子孫であったろう。そのためにゴアにおける典礼は、今日まで音楽上の改革をまぬかれ、ローマ・カトリック教会よりも古いままに保たれている。
 日本からインドに戻って再び中国へ向かったザビエルは、広東への途上で熱病に倒れ、1552年に世を去った。その遺体は長年、なんら腐敗の兆候を示さなかったという。この「東方の使徒」は 1622年に聖人の列に加えられた。

10年に1度公開される、ザビエルの遺体

 1665年、トスカーナ大公フェルディナンド2世は聖遺体を納めるべく、ブロンズのパネルを嵌めた銀製の柩をつくらせた。そのバロック様式のブロンズ彫刻はこの聖人の生涯と事績を描き、それには何枚もの黄金刺繍の布が掛けられている。こうして人々は、イグナティウス・デ・ロヨラ(1491頃〜1556)とともにイエズス会の創始者の一人であったザビエルを、永遠にたたえつづけるのである。
 また、フランシスコ・ザビエルの聖名を記念する祝日は 12月 3日と制定された。 その日にはボム・ジェズ・バシリカに何百本もの蝋燭(ろうそく)が灯され、その光が堂内の金銀細工の装飾をいちだんと輝かせる。 そのまばゆくも聖なる光景は、全盛期のゴアを評した次の言葉をあらためて想起させるのに十分である。「ゴアを訪れた人々は、もはやリスボンに行く必要はない。」

航空写真地図
オールド・ゴアの航空写真地図 (From Google Maps)

オールド・ゴアの遺跡

 南インドのヒンドゥ帝国ヴィジャヤナガラが 17世紀半ばに崩壊すると、ゴアは重要な交易の相手を失った。当時東南アジアにまでおよんで国際的に展開していた交易は、列強の利権争いの集中するところとなった。オランダ海軍は「黄金のゴア」を再三攻撃し、セ・カテドラルやフランシスコ会の修道院をはじめ多くのキリスト教施設までも破壊した。ポルトガルとオランダが争っている一方ではまた、イギリスとフランスがインド亜大陸を分割すべく武力衝突をくりかえしていたのである。
 1759年、それまで 1世紀余りのあいだコレラやマラリアの相つぐ流行のために人口が減少し、衰微してきたゴア・ヴェルハ(旧ゴア、現在のオールド・ゴア)から、町の西方 8キロメートルのゴア・ノーヴァ(新ゴア、現在のパナジ)へと、ポルトガル政庁が移転した。
 かつてのゴアには、聖職者はもはや修道士と修道女がひとりずつしか残らず、イエズス会のバシリカと付属修道院の建物は湿気におかされ、回廊も廃墟の静寂につつまれた。 かつてアルブケルケがビジャープルのイスラーム建築を模して創建した宮殿へと、凱旋門をくぐって参内する者の姿もなくなってしまった。おもな行事は大司教館で行われるようになり、フランシスコ会の修道院も、ポルトガル勢力の凋落にともなって、急速に衰えていった。カモンイスの彫像は見捨てられ、今日のゴアではこのポルトガルの大詩人の名を知る人もいない。

廃虚となった聖アウグスティヌス聖堂

 母国ポルトガルを遠く離れたゴアの植民者たちは、「インドとみなすべき要素が何もない別のインド、インドの過去を払拭した単純な何かを生み出した人たちにすぎない」と、インド系の現代イギリス人作家、V. S. ナイポールは書いている。ゴアでは、人々は伝統的な宗教も言語も捨て去って、文学を育(はぐく)まなかった。絵画もまた、植民地時代には十分な発展をみなかった。博物館に収められた航海者 ヴァスコ・ダ・ガマ(1469頃〜1524)の肖像画などに、その点がはっきりと指摘できる。
 人口過剰で街の構成の乱雑な他のインドのほかの都市と比べれば、ゴアは計画的に整然と構成され、文化的繁栄の一時代を築いた。しかし、今日では化石と化し、もはやここを訪れる人々を驚かせるような興味深い往時の文化遺産は数少ない。



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