CAVE TEMPLES at ELEPHANTA
ムンバイ(ボンベイ)
エレファンタ島の石窟寺院群
神谷武夫
エレファンタ島
中インド、マハーラーシュトラ州、ムンバイの東10kmの海上の島
1987年 ユネスコ世界遺産の文化遺産に登録

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古代インドの神は自然の岩窟の奥深くから信者の前に姿を現すという。6世紀から8世紀頃の造営になるエレファンタ島の7つの石窟寺院はヒンドゥ教のこうした考え方とシヴァ神への帰依の心からつくられた。エレファンタという島名は、この島にいくつも残されていた大きな象の彫刻に由来する(インド名はガーラープリー島)。何世紀にもわたって風雨にさらされた石窟と内壁に刻まれた彫像の傷みは激しいが、岩を彫ってつくられた神像は今日なお人々に賛嘆の念を起こさせ、感動を与えずにはいない。



シヴァ神の伝説

 「恵み深い」シヴァ神が「ヒマラヤの娘」パールヴァティーとダイス・ゲームをして負けたとき、シヴァ神は怒って4本の腕でテーブルの上のダイスを床へ払い落とし、妻のパールヴァティーに向かって、お前がずるをしたからだと言った。大喧嘩になるかと思われた。しかしパールヴァティーは穏やかにダイスを拾ってテーブルの上に戻し、くるりと背を向けて、怒っている振りをした。こうして彼女は夫のシヴァ神の怒りを収めたばかりか、負けるも勝つも世の習いであると悟らせたのである。
 周囲わずか7キロメートルの小さな島であるエレファンタ島のヒンドゥ教の石窟寺院で、みごとな壁面彫刻の数々を目にするとき、誰でも古代インドの彫刻家が残したメッセージに納得することだろう。負けて潔(いさぎよ)くあれ、勝って奢(おご)ることなかれと。
 7つの石窟のなかのひとつに見られる、ダイスゲームの逸話を描いたすばらしいレリーフ彫刻は、6世紀から8世紀のあいだに制作された。しかし、シヴァ神をたたえてつくられたこのみごとな石窟寺院が人々から忘れ去られると、雨風と盗掘者のおかげで、ほかのレリーフ彫刻と同様、荒れるままに放置された。
 エレファンタ島の石窟寺院にはほとんど碑文が残されていないので、開窟された時代の特定はむずかしい。造営した王朝は、デカン地方を支配したヴァーカータカ朝が6世紀に滅びたあと成立した、北のカラチュリ朝か、南のチャルキヤ朝であると考えられるが、いずれにしても6世紀から8世紀まで幅広く造寺活動を行ったので、エレファンタ島の石窟寺院も6世紀、7世紀、8世紀の諸説が入り乱れていて、定説はない。

中庭に面する東院のファサード


雨と暑熱をしのぐ聖所

 ムンバイ(ボンベイ)は特別経済保護地域として、1534年にポルトガルの手にわたっていた。この島を訪れて石窟寺院の外に立つ大きな黒い象の彫刻を見つけたポルトガル人は、この島をエレファンタ島と名づけた。
 次にやってきたイギリスの植民者は、1864年に象を解体して海路イギリスへ運ぼうと企てた。しかしムンバイまで運んだところで計画は頓挫し、1912年になんとか元の姿に組み立てられた大きな象の彫刻は、以来ムンバイのヴィクトリア・ガーデンズの博物館の庭に置かれている。
 エレファンタ島へはムンバイのインド門から連絡船で約1時間。船着き場から 1,000段の長い階段状の道を上がった所に、めざす石窟寺院があり、これを第1窟という。エレファンタ島にはほかにも石窟があり、最も古いふたつの石窟寺院は島の東側に位置する。そこは仏教遺跡とされる「ストゥーパの丘」のあるモーラという村の上方にあたる。ふたつの石窟の一方は未完成のままである。ポルトガル人だけに責任があるというわけではないが、石窟の外側の土が取り除かれたことや、意図的な破壊が行われたために、つくられた当初の輝きはほとんど失われてしまった。
 第1窟のファサードも未完成のままで、柱の並ぶ外側にはほとんど彫刻がない。当時、石窟寺院は木造の建物に囲まれていたようだが、それらの建物も今はない。岩山を掘ってつくった石窟寺院は、内部がひんやりとして涼しく、雨と暑さをしのぐ場所であるが、そればかりでなく、「神の教えはこれを大地の懐(ふところ)に求めよ」というヒンドゥ教の教えを反映するものでもあった。



エレファンタ島の第 1窟平面図
>(ジョージ・ミシェル「ヒンドゥ教の建築」より)


石窟の構成

 第 1窟は主堂が一辺約 28メートルの正方形をした列柱ホールで、北側に正面入り口がある。しかしこれとは別に東と西にも中庭に面した入り口がある。 それぞれの中庭には別の祠堂も面していて、それを東院、西院とよぶ。主堂には 30本以上の柱が立ち、各柱は北方型の溝つきクッション型の柱頭をいただき、柱身は上部が円柱、下部が四角柱となっている。近年、堂内の破損した柱はコンクリート製の模造柱に取り替えられている。
 北側の入り口から進んで行くと、いちばん奥の南壁に主神シヴァ神の大彫刻があるので、南北に中心軸が通っているようにみえる。ところが東西にも開口があるので、三方から光が入り、しかも東西軸上の西寄りにシヴァ神の象徴であるリンガ(男根)をまつる祠堂がつくられているので、2本の軸が直交する十字形のプランとなっていて、それまでのインドの石窟寺院とはずいぶん印象が違う。

主院の壁面には大きなレリーフ彫刻が並ぶ

 これと似たものは エローラーの第 29窟 で、仏教の石窟寺院の一元的な空間構成とは異なり、多元的で惑乱的な内部空間となっているのである。
 この破調の原因が何であったのかはよくわからない。西寄りの聖室も四方に開口部をもち、それぞれが一対のドゥヴァーラパーラ(護衛神)によって守られている。この東西軸上の東側入り口が立派に作られているところをみると、本来は東側が正面で、北側入り口は後からつくられたのかもしれない。 東の中庭も岩山を掘った人工的な中庭であり、これに面する東院は、小規模ながら均整のとれたつくりをしている。一方、西の中庭に面する祠堂はごく小さく、かたわらには池が設けられている。

南奥の壁面に彫刻された3面のシヴァ神像


シヴァ神の諸相を表わす彫刻群

 主堂の天井の高さは約6メートルあり、いたるところの壁面にほどこされている深彫りのレリーフ彫刻が、エレファンタ島のいちばんの見どころといえよう。南の奥壁は柱型によって3面に分割され、中央部には巨大な「三面のシヴァ神の胸像」が彫られている。東を向いた顔は恐るべき破壊神(バイラヴァ)の性格を表し、西を向いた優美な女性(神妃ウマー)の顔は歓喜と美を、中央の均整の取れた瞑想的な顔は調和を表している。ポルトガル人はこれらの石窟寺院のひとつをキリスト教の聖堂として使っていたので、3つの顔が合わさった彫刻はキリスト教の三位一体の原理を連想させるため、この三面像は無傷で残された。
 主堂壁面のレリーフ彫刻は全部で 15を数えるが、そこには驚くほど多くの、古代インドの叙事詩に由来する神話的場面が描かれている。シヴァ神が左半身女性、右半身男性というアルダナーリー(両性具有)の像として表現されているものや、カイラーサ山でのシヴァ神とパールヴァティーの婚礼の模様を描いたものもある。
 この婚礼のレリーフ彫刻は損傷が激しいが、他の神にかしずかれ、美しい宝石で着飾ったパールヴァティーの姿が認められる。そばにはパールヴァティーの父、ヒマーヴァト神(ヒマラヤの神)がいて、娘の右手(壊れて消失)を取り、シヴァ神の右手に重ねることによって娘の未来を託そうとしている。さらにマイナーカ山の神が純潔を象徴する天の聖水で満たされた器を持ち、ブラフマー神が司式を務め、ヴィシュヌ神が付添人をしているのである。
 グプタ朝時代の様式で彫られた他のふたつの区画では、シヴァ神が瞑想するヨガ行者、すなわちマハー・ヨギーの姿をしていたり、舞踏王ナタラージャとして彫出されたりしている。

北側入口の近くに彫刻されたナタラージャ


ガンジス川とシヴァ神の巻き毛

 焼かれて灰になった先祖の罪を信心深く贖罪(しょくざい)していた苦行者バギーラタを哀れんで、シヴァ神がその先祖の霊を救済するためにガンジス河の水を地上に与えようとしている情景が、高さ約6メートル、幅約4メートルのレリーフ彫刻に表されている。 慈悲深い神は河の落下の許しを与え、河の女神ガンガーに命じてみずからの頭上に河水を降らせた。シヴァ神の巻き毛を伝ったやわらかな水は大地に注ぎ、バギーラタの先祖の灰を純化した。
 また、パールヴァティーをかどわかそうとした悪魔のアンダカとシヴァ神との劇的な対決の様子が彫られた壁面は、ひどく傷んでいるにもかかわらず、暗黒の世界の魅力を失ってはいない。シヴァ神の髪で編んだ王冠は技巧に富み、髑髏(どくろ)がひとつと 1匹のコブラ、そして三日月が付いている。左肩には髑髏の数珠(じゅず)がかかっており、目は激しい怒りを象徴して眼窩(がんか)から突き出ている。
 神通力のある象の皮をまとった不死身のシヴァ神が、矢を持った敵に追いついて、トリシューラとよばれるシヴァ神の象徴のひとつである三叉戟(さんさげき)を敵の身体に突き立てている場面もある。魔物を皆殺しにすることがシヴァ神の破壊神としての役割である。開放的で静謐な石窟内の雰囲気と、これほど激しいコントラストをなすレリーフ彫刻はほかにない。

リンガが 祀られた 聖室

 春にエレファンタ島で催される舞踏の祭りは全国に知られ、毎年多くの人々を楽しませている。とくに日曜日には、インドの各地から人々が連絡船でこの小さな島にやってくる。かつての石窟寺院に、礼拝の声が聞かれなくなって久しいが、その代わり石窟入り口周辺の木陰はピクニックの人々であふれている。
 エレファンタ島に残された偉大な文化遺跡は早急に保全の手だてを講ずる必要がある。わずか数キロメートルの所にある近くの島々には化学工場などがあるばかりでなく、現代インドの象徴ともいうべきトロンベイ原子力発電所まであるのである。


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