ENCOUNTERS with MODERNISM
インドモダニズム邂逅

神谷武夫

コルビュジエ
繊維業会館 ル・コルビュジエ

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モダニズムの巨匠

 近代建築の 3大巨匠と呼ばれるのは、ル・コルビュジエ (1887-1965) と ミース・ファン・デル・ローエ(1886-1969) 、それにフランク・ロイド・ライト (1867-1959)である。鉄とガラスのオフィス・ビルに象徴される ミースの建築スタイルは、工業化社会と経済中心主義の時代にマッチして、世界中の大都市に蔓延した。
 その対極に位置する ライトの個性的な建築スタイルは、ほとんど国外には広まらなかった。アメリカ以外では唯一、日本に 帝国ホテルをはじめとする彼の作品群がもたらされたのだが、日本の伝統とはまるで異なった ライトの造形と装飾は、日本とは肌が合わなかったのかもしれない。日本の近代建築を主導したのは、優れた弟子にも恵まれた ル・コルビュジエの都市と建築の理論、およびコンクリートの造形であったと言える。


フランク・ロイド・ライト

 そのように、世界のほとんどの国が ミースとコルの建築によって制覇されたのであったが、ライトがそれに置き代わっていても よかったように見える国がある。 インドである。
 1947年まで英国の植民地だったインドは 工業化に立ち遅れ、経済も低迷したから、ミース風の鉄とガラスの建築は十分に育たなかったし、ヒンドゥ寺院に代表されるインドの伝統建築は 細部が彫刻で豊かに装飾されていたから、3大巨匠の中では ライトの建築に最も親近性があった。おそらくそのように感じとったインドの若者が二人、ライトのタリアセンのもとに建築を学びに行った。

 それはインドのメディチ家とでも言えるような アーメダバードの紡績業の財閥で、種々の文化の発展にも力を尽くした サラバイ家の ガウタム・サラバイ (1917-95) と、その妹の ギラ (1923- ) であった。 彼らは 1940年代前半の2年間をライトのもとで修行し、帰国すると、ライトの作品をインドに実現させるべく サラバイ家を動かした。

アフマダーバードの綿織物業ビル計画案 1946年 フランク・ロイド・ライト
(From "Frank Lloyd Wright Drawings" by Bruce Brooks Pfeiffer, 1990)

 インド独立前年の 1946年、ライトはサラバイ家の 綿織物業ビルの設計案を提出したのである。ところが何があったのか、ライトとサラバイ家とは次第に仲が悪くなってしまい、ついにこの案は実現しないことになる。そして振り子は ライトからル・コルビュジエへと振れることになるのだが、もしもこの時 ライトの建築が実現していれば、その後のインドの近代建築は、ずいぶんとちがった発展をとげていたことだろう。


アントニン・レイモンド

 しかしながら、インドとモダニズムの邂逅は、これが最初だったわけではない。それより9年も前に アントニン・レイモンド (1888-1976) が、ポンディシェリーの哲学者・宗教家のシュリー・オーロビンド (1872-1950) に招かれて、そのアシュラム(道場)の寄宿舎を 正統的な近代建築として実現していた。

  
シュリー・オーロビンド協会の寄宿舎、レイモンド

 ライトの帝国ホテル設計のアシスタントとして来日して以来、独立して事務所を構えていたレイモンドは、しかし日本が次第に戦争体制へと傾斜して行くにつれて 日本にいづらくなった1937年、折りよくインドに呼ばれて、日本を去ったのである。
 その打ち放しコンクリートの寄宿舎は、巧みなディテールの 可動ブリーズ・ソレイユ(日除け)をはじめ、後のル・コルビュジエの建物よりも はるかによくメンテナンスされて、今も大切に使われている。そして、この建物の 現場監理と造園を担当したのが、アシスタントの ジョージ・ナカシマ(1905-1990)である。


アーサー・ゴードン・シュースミス

 とはいえ、このシュリ・オーロビンド・アシュラムがインドにおける最初のモダニズム建築であったわけではなく、話はさらに 7年をさかのぼる。
 ニューデリーの都市設計と インド総督官邸(現在の大統領官邸)を設計した英国の建築家、エドウィン・ラチェンズ (1869-1944) のアシスタントとして 現場監理をしていた若き建築家、アーサー・ゴードン・シュースミス (1888-1974) は 1930年に、セント・マーチンズ・ガリソン聖堂をニューデリーに建てた。

  
セント・マーチンズ・ガリソン聖堂、A・G・シュースミス

 装飾を排した、構成主義風の力強いレンガの巨大なマッスは、インドにおける最初の近代建築となる。シュースミスの名はその後聞かれなくなってしまうが、彼はル・コルビュジエと一歳ちがいの 隠れモダニストだったのである。


ル・コルビュジエ

 インドが ル・コルビュジエと出会うのは、パンジャーブ州の新州都、チャンディーガルの設計を依頼した 1950年である。当初は ネルー首相の知己だったアメリカの建築家、アルバート・メイヤー (1897-1981) に依頼されていたのだが、その協力者である建築家、マッシュ・ノヴィッキ (1910-1949) が事故死してしまったことによって 中断していた。そこで州政府の委員会は ヨーロッパで何人もの建築家と面談した結果、ル・コルビュジエを新都市と主要施設の設計者に選んだのである。

チャンディーガルの議会棟、ル・コルビュジエ

 これに呼応して アフマダバードでは、サラバイ家がライトからコルに乗り換え、その音頭によって 事業家たちやグジャラート州政府は次々にル・コルビュジエに仕事を依頼することになる。彼はチャンディーガルと並行して アフマダーバードに サラバイ邸、ショーダン邸、繊維業会館、サンスカル・ケンドラ美術館などを次々と設計したので、インドはフランス国内に次いで コルの作品の集積地となり、以後のインド建築界の方向を決定することになる。

  
アフマダーバードのサラバイ邸と 繊維業会館 ル・コルビュジエ


バルクリシュナ・ドーシ

 パリの ル・コルビュジエ・アトリエで学んだインド人建築家、バルクリシュナ・ドーシ (1927- ) は、これらの建物の現場監理をするうちにアーメダバードに居つき、事務所 を構え、建築・デザイン学校の設立と その教育にも当たることになる。アーメダバードがインドにおける モダン・デザインのメッカとなった立役者である。
 1962年にインド経営大学のキャンパス設計の依頼がくると、彼はこれをルイス・カーン (1901-1974) の設計で建てることによって、インドの建築学生の教育に益をもたらそうと考えた。

アフマダーバードの LD 研究所、バルクリシュナ・ドーシ


ルイス・カーン

 一方、カーンには もっと大きな仕事が バングラデシュから依頼された。
 英国からインドと分離独立した 東パキスタン(現・バングラデシュ)は、新しい首都をダッカに定め、その北部地区に 国会議事堂をはじめとする首都機能の建物群を建設することになった。この時バングラデシュ政府は その設計者にル・コルビュジエを選んだのだったが、彼はすでに高齢であり、これを断った。第二候補のアルヴァ・アアルトも やはり辞退したので、ルイス・カーンにお鉢がまわってきたのである。

  
バングラデシュの国会議事堂と アフマダーバードのインド経営大学、ルイス・カーン

 1962年末、カーンは初めてインドとバングラデシュの地を踏むことになる。これらの設計はカーンにとって 順風な仕事ではなかったが、インドに ル・コルビュジエ以外の巨匠の作品が実現した意義は大きい。巨大なコンクリートの庇やブリーズ・ソレイユで彫刻的につくられたコルの建物が インドのヒンドゥ建築の伝統にマッチしていたとするなら、カーンの純粋幾何学のような建築は、イスラーム建築の伝統と まったく違和感がなかったからである。

(「カ-サ・ブルータス」(マガジンハウス)2005年3月号 )


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