ACROMEGALIC ARCHITECTURE
末端肥大症建築
< あるいは、全体を構成する要素の自立性 >
神谷武夫
クルヴァッティのマリカールジュナ寺院

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末端肥大症の建築

 建築における「末端肥大症」とは何か。それは全体よりも部分のデザインに莫大なエネルギーをかけることであり、機能的に主たる空間の造形よりも末端部の空間や形態を際立たせてしまうデザインであり、中央に部分を従属させるよりも、部分部分にそれぞれ独立した小世界を与えてしまうようなあり方である。
 こうした設計方法は正統的な建築観からは否定され、合理的な精神からは批判されるだろう。だが、その「正統的」というのは近代のヨーロッパや日本における「正統」であって、それが古今東西に普遍的な「正統」であるわけではない。

ピュロンがそびえるホルス神殿、エドフ

 たとえば、古代エジプトの神殿建築を見ると、そこでは矩形の境内全体が要塞のような背の高い塀で囲まれ、塀の内側に何があるのか外からはまったくうかがい知れないが、矩形の塀の短辺側には堂々たるピュロン(パイロン)が高く聳え立っている。「ピュロン」とは塔門であり、境内への入り口をはさむ 2棟の建物を上部でつなぎ合わせ、扉をつけて門型にした石造の高層建築である。
 その表面は神々のレリーフ彫刻をはじめとしてさまざまな装飾要素で飾られ、神殿全体の外観はピュロンで決定される。それ以外の諸室はすべて塀の中に包み隠されていて、中心となる祭室の上部が聳え立つわけでもなく、外からはまったく見えない。内部に入ってみても中央祭室は奥まった所にある暗い小部屋にすぎず、いったいこの建物は本殿というべき中央祭室をそっちのけにして、入り口の門ばかりを巨大にして飾りたてたのは何のためかと不思議な印象にとらえられる。

 これが「末端肥大症」である。門というのは機能的には構内への単なる入り口であり、戸締りができさえすればよいのだから、何も主目的空間をしのぐほどに雄大につくる必要はさらさらない。と、そう考えるのは近代の合理精神である。
 古代エジプト人はそうは考えなかった。門こそがその建物の顔であり、人間の顔に人格や品性がにじみ出るように、門にこそその建物のレゾンデートル(存在理由)が表現されるべきだと考えたのにちがいない。門という末端の建物に壮大さを与えてしまうことによって本堂の威厳がそこなわれるとは思いもしなかったのだろう。
 古代エジプトの最大の神殿建築、カルナックのアモン大神殿では境内の規模が拡大されるごとに、より大きなピュロンが前面に建てられ、最終的には 6基ものピュロンが連なることになった。こうした末端肥大症の建築というのは、世界の建築の歴史の中でも異例であると考えられよう。

アルナーチャレーシュワラ寺院のゴプラ群


南インドのドラヴィダ様式の寺院

 しかし、そうしたメンタリティーをもつ建築は古代エジプトのほかにもあった。それは南インドのドラヴィダ様式と呼ばれる、近世のヒンドゥ寺院群である。
 中世のチョーラ帝国の時代にはタンジャーヴールのブリハディーシュワラ寺院のように、本堂(ヴィマーナ)が高さ 60mを超えるまでに偉大な姿を与えられたものだが、14世紀のヴィジャヤナガラ王国時代になると、寺院建築のあり方が一変してしまう。本堂は創建時の頃のままに小さくしておき、境内を塀で矩形に囲むと、その入り口にピュロンならぬ「ゴプラ」と呼ばれる堂々たる塔門を築くようになるのである。
 それは時代が下ると、古代エジプトのように拡大された境内が高い塀で囲まれて、さらに大きなゴプラが建てられる。名刹の大伽藍ともなればこれを繰り返して、門としてのゴプラの数は 10を超え、最大級のゴプラは高さ 70mを超えることになる。(註)

 ティルヴァンナーマライの町では 16世紀から 17世紀にわたって増築が続けられたアルナーチャレーシュワラ寺院のゴプラ群が、まるで超高層ビル群のように低層の町並みを睥睨して聳え立っている。本堂はいちばん内側の境内にごく小さく建っているに過ぎないから、周囲からはその存在がほとんどわからない。これら 10基の壮大な超高層建築がすべて、単に一寺院の門であるにすぎないというのは、現代の建築家にとっては考えることもむずかしい。
 ドラヴィダ寺院の伽藍における、こうした末端肥大症への方向転換の原因が何であったのかは未だに明らかでないが、このゴプラ(寺門)そのもののデザインにも末端肥大、あるいは「全体を構成する要素の自立性」という現象が見られる。

ミーナクシー・スンダレーシュワラ寺院の北ゴプラ

 近世のドラヴィダ寺院を代表するマドゥライのミーナークシー・スンダレーシュワラ寺院(主に 17世紀)には 12基のゴプラが林立しているが、北面の大ゴプラは 10層からなり、高さは 45mほどになる。上層ほどにセットバックしてゴプラ全体のシルエットはゆるやかなカーブを描きながら、ゴチック建築のように天へと伸び上がる。通り抜け通路のある階高の高い1階のみが石造で、上部の9層はレンガ造の上にプラスター仕上げであるが、定形どおりにプランは長方形をしていて、頂部にはカマボコ型のヴォールト屋根の棟を戴いている。


ゴプラ(寺門)の構成原理

 インドの寺院建築といえば、その壁面に神々や動物や男女の彫像が密集することで知られるが、ゴプラの細部を見ると、実はもっとずっと建築的につくられていることがわかる。その第2層目、中央部よりもやや左側を見てみよう。
 ここには南方型の彩り豊かなドラヴィダ様式の寺院ユニットが緻密につくられている。こうしたヴォールト屋根の2階建ての寺院形(シャーラー)が水平層全体に建ち並んでいて、その上の各層もすべて同様である。写真の上部に第3層目の寺院形の下部が見えるが、その軸線が 2層目とずれているのは、上層階がセットバックして少しずつ縮小形となるからである。

北ゴプラの第 2層目の寺院形ユニット(シャーラー)


寺院形ユニットの分解図(積層するシャーラー)

 女神が本尊として彫刻されたこの完璧な、これ自体で完結している形の寺院ユニット(分解図の1)をよく見ると、その中心軸上に小型の寺院形(シャーラー)が 3つ積み重ねられているのがわかる(分解図の 2〜4)。 それぞれが 2階建ての完結した自立型の寺院であるが、これら小型の寺院形内とその周囲にはさらに多くのミニ寺院群が彫刻されている(分解図の 5〜14)。
 つまり、この第 2層目の寺院ユニットは全部で 14の寺院が複雑な入れ子構造になっているのである。 そのどの段階の寺院形をとっても基壇の上に柱が立ち、聖室があり、庇があって、2階の柱の上にヴォールト型の屋根が載るという、完結した、独立した建物となっている。

 この寺院ユニットのプロポーションはさまざまに変化するものの、各層に 30ユニットほど並んでいるから、入れ子構造になっている寺院形は1層で約 400にもなるだろう。 それが 10層に重なっているとなれば、1基のゴプラに 3,000から 4,000もの寺院を内蔵していることになる。ミーナークシー・スンダレーシュワラ寺院のゴプラの数は大小 12基を数えるから、寺院全体ではおよそ3万の寺院形が入れ子構造になって、いたるところに埋め込まれているのである。
 その数もさることながら、ミニ寺院群が積層して小寺院となり、小寺院群が積層して中寺院になり、それが積層して大ゴプラを形成するという、こうした建築のあり方というのは世界に例を見ない。ゴチックの大聖堂がいくら巨大で複雑につくられているといっても、その要素はアーチや柱、バットレスや尖塔、トレーサリー等々なのであって、部分が独立した聖堂としての建物の形をとることはない。門という建物にこれほどの寓意性を与え、莫大なエネルギーをかけて、その末端の要素ひとつひとつに寺院建築の形を与えていった衝動というのは何に由来するのだろうか。

マリカールジュナ寺院のヴィマーナ、クルヴァッティ


柱脚のデザイン

 それを知るために、インド建築における、もうひとつの末端肥大のあり方を見てみよう。やはり南インドであるが、門よりも本堂のほうが立派につくられていた時代、中世のカルナータカ地方のヒンドゥ寺院である。
 10世紀も終わり近く、インドの石造建築は木造的原理の柱・梁構造でありながら、すでにその石彫と架構の技術は完成の域に達していた。このクルヴァッティのマリカールジュナ寺院の外形は、中世の寺院建築を大きく北方型と南方型とに分けたときにちょうどその両者の中間的な造形となる、後期チャルキヤ様式といわれるものである。( 柱頭彫刻

マリカールジュナ寺院の平面図
(From "Encyclopaedia of Indian Temple Architecture"
by M.A. Dhaky, American Institute of Indian Studies, 1996)

 プランは本尊を祀る聖室(ガルバグリハ)の手前に前室(アンタラーラ)を介して拝堂(マンダパ)があり、その三方に入り口がある。 正方形の マンダパの内部 には定形どおり4本の柱が立って天井の梁を支える。緑泥石の柱はろくろを使って製作したと思われる円盤の積層のような形をとるが、何よりも興味深いのはその華麗な柱脚部分である。

マリカールジュナ寺院における柱の脚部

 これはおそらく、世界で最も豊かに装飾された柱脚であろう。柱身の円形断面に対して正方形断面をした柱脚は、まず幾何学的に立体感をつけられた台座の上の四隅に、数条の溝彫りのある角柱が立ち上がり、角柱の三段重ねになった柱頭の上にはそれぞれ2階建てのミニ寺院を戴いている。
 それらの角柱にはさまれた各辺には、今度は平屋であるが、4本の円柱の上に背の高い塔状の屋根を戴く寺院が彫刻されている。この塔状部の形はシカラと呼ばれる砲弾形をしていて、小シカラが積層して大きなシカラをつくり、頂部に溝付き円盤(アーマラカ)と頂華(カラシャ)を載く。さらにシカラの周囲を取り巻く渦型の装飾を別にすれば、これは完全な北方型の寺院であり、しかも円柱の間の聖室にはそれぞれ本尊の神像さえ彫刻されている。
 つまり、このマンダパの4本の柱は、それぞれが柱脚部に北方型の4寺院を背中合わせにして包含しているのである。

 インドにおける柱(スタンバ)というのは、大地と天界を結ぶ垂直軸のシンボルなのであって、これら4本の柱は四方(世界)に寺院(神の家)を開くことによってその柱の中心がそれぞれに自立した宇宙軸をなしている。
 そもそもヒンドゥ寺院の本堂はリンガ(シヴァ神のシンボルとしての男根)を祀るガルバグリハ(子宮としての聖室)の上に塔状のシカラ(それ自体が巨大なリンガである)を立ち上げ、頂部にカラシャ(シヴァ神の住むヒマラヤのカイラーサ山)を戴くことによって、人間の大地と神々の天界とを結ぶ宇宙軸であると解釈されている。
 このマリカールジュナ寺院では、さらにマンダパ(拝堂)もまたそれぞれに宇宙軸をなして自立する4本の柱に囲まれた象徴的な神聖空間を形成し、神々の遍在するヒンドゥ世界というものをこの上なく明瞭に示しているのである。
 ギリシア以来の西洋建築では、柱頭に比べて柱脚にはあまり注意が向かないのが普通である。それに対してマンダパの一本一本の柱を自立した宇宙軸にしようというインドの精神が、柱の脚部に宇宙をこめ、柱脚という末端をおそるべき密度にまで肥大させたのであった。
 南方型の近世寺院のゴプラ一基に数千の寺院を埋め込むといった方法も、同じ精神に根ざしていると言わねばならない。

(日本建築学会「建築雑誌」2000年9月号 )






≪ 註 ≫

 本堂を小規模なままにしておき、何重にも矩形の塀で囲って入り口の門のみを壮大につくるという伽藍構成は、古代エジプトと近世の南インドにしか見られない。これら遠く離れた二つの地にどのような関係があったのだろうか。地球物理学によれば現在のインド亜大陸は太古の時代にはアフリカ大陸と一体化していたというから、何億年も前の遥か遠い祖先の記憶が、こうした共通の建築形式として よみがえったのだろうか。


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